5月21日、日本橋・三越劇場で『90なんてまだ若い! 内海桂子・桂米丸』の舞台が始まった。

 昭和2年に百貨店の中の劇場として誕生し、以来、古典芸能や演劇、落語会、コンサートなど多彩な文化を発信し続けてきた三越劇場が、今年90周年を迎える。

 これを記念して行われた実演イベントのひとつが、この舞台。

 ちなみに桂米丸さんといえば、『笑点』の前司会者、桂歌丸さんの師匠にあたる。大正14年生まれの92歳。新作落語の名手として知られ、その飄々(ひょうひょう)とした芸風は、現在も寄席で健在である。

 飴(あめ)色に光り輝く木製の天井、アールデコ風のデザイン、いかにも老舗らしい劇場は400人を超える中高年の女性客でいっぱいだった。

 若い司会者と桂子さんが掛け合いの漫才を始めた。演目は『銘鳥銘木』。これは100年前から伝わる漫才のひとつで、桂子さんの十八番(おはこ)である。

「銘鳥銘木、木に鳥とめた」「なんの木にとめた?」「松の木にとめた」「なに鳥止めた?」「つるどりとんまらかして、それそっちへ渡した」「受け取りかしこまって、なかなかもってがってんだ!」

 それからも「なんの木にとめた?」「箒(ほうき)にとめた」「ほうき?」「ちりとりとんまらかして、それそっちへ渡した………」「ウイスキ(木)にとめた」「サントリーとめた」とダジャレと機転の応戦は続く。

 さらに、桂子さんにとっては孫、いや、ひ孫世代の若手の芸人たちが登場し、桂子さんと銘鳥銘木の掛け合いを始め、拙(つたな)い若手芸人の「滑り」に場内は爆笑の渦に包まれた。

 長身の若手芸人たちに取り囲まれ、見下ろされる格好の桂子さんだが、臆することなど微塵もない。「あんたら、若いだけで何にもできないんだから」と容赦ない。ひときわ甲高くよく通る彼女の声はマイクを通さずとも、こちらの耳に響いてくる。

 そして、桂子さんのひとり舞台──。

 舞台の中央のイスに彼女が三味線を持って座り、慣れた手つきで調弦を始める。

 彼女の横には、大きなスケッチブックが置かれていた。

 そこには、自身の似顔絵を添えた都々逸(どどいつ)が書かれていた。

《生命(いのち)とは 粋なものだよ 色恋忘れ 意地はりなくなりゃ 石になる》

「これ、私が左手で書いたんですよ」というと会場から「ほぉー!」という声と大きな拍手がわき起こる。

「あたしゃ、16から漫才やって、94まで休んでないの」

 しゃべりながらも、三味線を弾く手は休めない。ちんとんしゃんとてちんとん……。時折、明らかにトチる。客席に笑い声が起こるが、本人はいたって真顔でかまう様子はなし。そして、甲高い艶のある声で歌いだす。

 ボードが裏返ると、そこに新たな都々逸が書いてある。

《石に成っても、俺らは違う。菜漬梅干し沢庵石に成って百歳までは生きてやる》

《九四ですよ 酒は一合、ご飯は二膳 夜中に五回もお手洗 100まで6年 わけはない 皆様、どうぞよろしく願います》

 内海桂子──、1922年(大正11年)9月12日生まれ、御年94歳である。

 レジェンドなどという言葉では物足りない、まさに国宝級の女芸人だ。

 弟子の好江と組んだ漫才コンビ「内海桂子好江」は約半世紀にわたって人気を集め、好江の没後は、漫才協会会長、さらに現在は漫才協会名誉会長として長く東京演芸界を率いる傍ら、最古参の現役芸人として都々逸や漫談、軽口などさまざまな昭和の演芸を今なお広く演じ、人気を集めている。また、80歳を過ぎてからいくつかの大ケガや大病を乗り越え、現在、寄席でもその体験談を披露している。さらに’10年からTwitterのアカウントを取得、自らの言葉で1日数回、発信を続ける。

コンビとして人気絶頂だったころ。2人は’82年、漫才師として初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞
コンビとして人気絶頂だったころ。2人は’82年、漫才師として初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞

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 今年1月8日、浅草・東洋館の仕事の帰り。タクシーを降りた桂子さんは、縁石に足をかけた途端、躓(つまず)き転倒してしまった。道路に四つん這いになり、しばらく動けなかった。痛い、痛いと訴える彼女のためにマネージャーで、ご主人の成田さんは、救急車を呼ぼうとするが、彼女はそれを制止。「だって、近所の人に悪いだろ」。そこで、成田さんは彼女を抱きかかえ自宅まで連れ帰った。これが初めての事故ではない。成田さんは床に寝かせて様子を見ることにした。

 5日後、痛みが引かなかったため、成田さんは桂子さんをかかりつけの聖路加病院に連れて行った。そこで診断されたのは腰の骨折。入院し4時間に及ぶ手術が行われた。通常2か月の入院が必要だったが、1か月後に『徹子の部屋』の収録があったために、1か月で無理やり退院。

 このとき、桂子さんは珍しく洋服姿で出演した。ケガのせいで着物が着れなかったためだが、番組の最後で、徹子さんがそのことに触れると、そこで「実は、あたし骨折して入院してたんです」と初めて告白したのだった。

 桂子さんは、救急車が嫌い、車イスが嫌い、薬が嫌い、いつまでも元気でいるように見られたい。だから、つい頑張ってしまうのだ。