壮絶なる芸人人生

「本名は安藤良子といいます。父親は深川の籐(とう)職人、母は本所の理髪店の娘でした。2人が20歳のころに駆け落ちして大正11年に私が生まれたんです。世田谷の小学校に入学し、その後は父親がどこかに消えたので、台東区田中町(現・日本堤)の祖父の家で暮らしました」と桂子さん。

戦時中は、軍の慰問で各地を訪れた。写真は昭和18年に満州を慰問したときのもの
戦時中は、軍の慰問で各地を訪れた。写真は昭和18年に満州を慰問したときのもの
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 母はその後、新しい夫と一緒になるが、借家の敷金20円が払えず、桂子さんは小学校を3年で中退し、進んで老舗の蕎麦屋に子守奉公に出る。「子どもだってお金が稼げる」、「人間、動けばお金になる」という思いが幼い彼女の身体にはすでにしみ込んでいた。年季は5年の予定だったが、頭にケガをさせられて、2年足らずで家に戻ることになる。奉公から戻された彼女は母親に「ひとりで生きていくには何か芸事を身につけなさい」と言われ三味線と踊りを習い始める。とはいえ、近所の鼻緒屋で仕事を自分で探してきて、1か月に3円稼ぎ月謝に1円50銭、残りの半分は親に渡していたのだ。

 さて、それなりに三味線も踊りもできるようになったころ、漫才師・高砂家とし松が千葉で演芸巡業の話を母に持ってきた。そこで桂子さんも人数合わせで駆り出された。仕事はビラ配りや楽屋の始末、人手が足りないときには助っ人で舞台に出たりもした。巡業は約1か月。そこで桂子さんはいろいろなことを学んだ。その後しばらくして、あの高砂家とし松が再びやってきて、今度は桂子さんに漫才の相方をやってくれと頼み込んできた。相方である女房が妊娠して舞台に出られなくなったためだった。

「私の傍(そば)で『夕暮れ』(江戸端唄の1曲)を三味線で弾いてくれるだけでいい。目いっぱい給金は弾むから」と、とし松。そして浅草・橘館の舞台に立つ。漫才師としてのデビュー。昭和13年、16歳の春だった。大学卒の初任給が月20円の当時、彼女の初任給は35円。もっともお金の管理は、親に任せていた。

16歳。芸人としてデビューしたときの桂子さん
16歳。芸人としてデビューしたときの桂子さん

「この当時は漫才ブームが起こり、とし松と私のコンビは、代役のつもりが3年以上も続き、トリを務めるほどでした」

 そんな中、とし松との間に子どもができ、19歳で長男を出産。17年にはとし松とのコンビを解消。その後、戦時色が強くなる中、「三桝家好子」の芸名で、いろんな相方と組んで漫才の舞台をこなし、満州などの外地へも慰問に行ったのだった。

 戦後は、漫才以外にもキャバレーの女給から団子売りまで、なんでもやって稼いだ。このキャバレー時代に「桂子」の名がついたらしい。

 桂子さんは、もう1人、父親のいない子どもを産んでいる。それは、次の相方との間にできた娘。この相手とは5年ほどの夫婦生活の後、別れた。現在、桂子さんには孫が6人、ひ孫は7人いる。