内海桂子好江の漫才で一世を風靡

 1983年の内海桂子好江が舞台に立つ映像が残っている。演目は『日本酒物語』。緑の着物の桂子さんに、淡いオレンジの着物の好江さん。2人とも背中に三味線を背負っている。

 2人のちゃきちゃきの江戸弁が心地よい。桂子さんが道徳的・常識的な役割でそこに破天荒な好江さんがツッコむというスタイル。日本酒にまつわる話を繰り広げながら、時折、政治ネタも織り込んでくる。いつの間にか、好江さんがどんどん脱線しいっきに啖呵(たんか)を切るのが、このコンビの真骨頂。最後は三味線で都々逸を披露して締め。会場は大きな笑いであふれていた。

 現在、東京の寄席でナンバーワンの人気を誇る弟子のナイツの笑いとも通じるものを感じる。桂子好江の代表作ともいえる『オペラは楽し』などの作者は、売れっ子作家の神津友好氏。いかに桂子好江が注目されていたかがわかる。

 桂子さんと好江さんがコンビを組んだのは1950(昭和25)年。好江さんは、漫才師の両親のもと、9歳から舞台を踏み、女剣劇や父娘漫才を経て、桂子さんのもとにやってきた。このとき桂子さんは28歳、好江さんはまだ14歳だった。

内海桂子好江としてデビューしたてのころ
内海桂子好江としてデビューしたてのころ
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「好江ちゃんは、三味線を持ったこともなく、着物もうまくひとりで着られないような娘さんでした」

 だから初めは桂子さんが着付けを手伝っていたのだが、あるとき「これからは自分で着なさい」と宣言。もたもたしている好江さんを待たずにひとりで舞台に出たこともあった。しかし好江さんは必死に努力して、やがて桂子さんより着付けが早くなった。

 その後、内海桂子好江は人気を集め、’82年には漫才師としては初めての芸術選奨文部大臣賞を受賞する。

 その後、好江さんは辛口の批評が人気を集め、テレビのコメンテーターとして活躍するようになる。長年、舞台の演芸をやってきて、テレビのバラエティーとはなじまない桂子さんとは次第に距離が生まれ、コンビの芸を見る機会は激減していく。

 そんな’97年、相方の好江さんが61歳という若さで亡くなってしまう。

 好江さんが亡くなる少し前、「2人は仲違(なかたが)いした」という風評が立っていた。桂子さんに内緒で、自分だけの仕事を増やしていたのも事実だ。そのことについて桂子さんは、

「若いころからずっとまるで『鬼ばばぁ』のように好江ちゃんにはずいぶんきついことも言ってきました。彼女が自分を主張したくなったのも当然でしょう。だから、あたしも彼女の活躍の場が広がるよう後押しをしていたんですよ。これからというときだったのに、本当に残念だった」