ふた回り年下の夫とのラブロマンス

 桂子さんのマネージャーであり、最愛の夫でもある成田常也さんは現在70歳。彼女より24歳年下である。新潟生まれで、小学校のころからラジオで聴く漫才や漫談、落語が好きな少年だった。中でも、内海桂子好江や林家三平が大好きだったと言う。

「僕は三味線の音が好きだったんですよ。実家が魚屋をやっていて、よく家で宴会が開かれ、小さなころからお酒のお燗(かん)の役を務めていました」

2人は、15年の同居後、出雲大社で結婚式を挙げた。2人とも初婚
2人は、15年の同居後、出雲大社で結婚式を挙げた。2人とも初婚
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 当初、成田さんは、てっきり芸人筋の方だと思われていた。見た目のとぼけた風貌も浅草の芸人らしい。ところが実はさにあらず。成田さんが、桂子さんと初めて出会ったのはアメリカの会社員時代。桂子さん64歳、成田さんは40歳で未婚だった。日本航空系の会社勤務のエリートである。そこでは「日航寄席」という演芸会が年に何度かアメリカ各地で開催され、成田さんは日本から芸人を呼ぶ仕事を任されていた。

 憧れの内海桂子好江コンビは、いつか呼んで生で芸を見てみたい芸人ではあった。

「よし、接触してみよう」と成田さんは思い、内海桂子の連絡先に国際電話を入れてみた。電話口に出たのは、桂子さん本人だった。帰国し、桂子さんの家を訪ねたのだった。

 そのとき、成田さんは、桂子さんが成田さんの思い描く芸人のイメージと違うことに気がついた。

「ちゃらんぽらんじゃないと思いました。そして、言葉に真実味を感じた。さらに、着物姿が美しかったことにも惹かれましたね」

 結局、アメリカでの公演は実現しなかったのだが、それから成田さんの手紙攻勢が始まる。1年間で300通。毎日のように、桂子さんの家に成田さんの手紙が届いた。

 当時、娘とその孫と同居していた桂子さんは、当時のことをこう思い出す。

「孫がね、毎日手紙を持ってくるんです。また、この変な人から手紙が来てるよ、とね」

 300通を超える手紙の、最後の1通に成田さんはプロポーズの言葉をしたためた。そして、アメリカで一緒に暮らさないか、と打ち明けたのだった。しかし、師匠の返事はノー。「そりゃそうさ、あたしがアメリカなんかで暮らせるわけはない。浅草の家には娘も孫も母もいるわけだしね。みんな、あたしがいないと干上がっちまう」。

 普通ならば、ここで断念するのだろう。だが、成田さんの情熱は少しも衰えることなく、「ならば私が東京に行きましょう」と切り出したのだった。長年勤めたアメリカの優良企業のポストを捨てる覚悟を決めたのだ。

 そして成田さんが帰国。同居生活が始まった。当初は、桂子さんの「仕事のない人とは暮らしたくない」という理由から、成田さんは家具会社の社長室長の仕事をしていたが、2年後には桂子さんの仕事をサポートすることに。同居当初は「遺産狙いじゃないか」などと言われた成田さんだったが、次第にその誠実ぶりが家族に認められていった。成田さんより5歳年上で結婚には反対だった桂子さんの長男も、病床での最後の言葉が「母をよろしく」だった。そして同居から15年が過ぎた’99年、2人は島根県の出雲大社で結婚式を挙げ、その模様はテレビで放映されたのだった。