最愛の兄を亡くし、第4代社長に就任

 それは岡山の英会話学校でのことだった。

 前述した大学時代のヨーロッパ視察旅行の前、木下さんは英語の語学学校に通っていたことがあった。商社マンを夢見てのことだったが、そこでマスターした英語がヨーロッパでもおおいに役立った。

 そうした経験もあり、当時、木下サーカスで常務の役職を務めながら地元・岡山で英会話学校を経営するという、二足のわらじをはいていたのだ。

「その学校に、急に電話が入ったんです。兄の光宣が脳幹出血で倒れたとの連絡で、私が行った時にはすでに、意識はほとんどない状態でした」

 さかのぼること2年前の昭和63(1988)年4月、瀬戸大橋が完成して瀬戸大橋博覧会が開催された。木下サーカスもそれに協賛、3月から8月まで香川県で公演を行っていた。だが、これが予想外の不入り。光宣さんは3億円の負債を抱えてしまっていたのである。

「英会話学校の経営で私の手が半分取られていますから、兄貴が営業に困っていたのも事実だったと思います」

 人気回復を図ろうと、光宣さんが中国に新団員を招聘(しょうへい)しに行ったのもいけなかった。

「事業で中国に行くと、乾杯、乾杯が続くでしょう。あんまり飲めないのに飲んだんでしょうねえ……」

 後日わかったことがある。

 光宣さんの懸命の努力にもかかわらず、倒れた時には負債は10億円を超えるほどに。さらには光宣さんが倒れたのは、銀行のトイレ内。姫路公演のための資金を借りようと、出かけた際の出来事だったのだ。

 最愛の兄は危機的状況にあったが、一刻の猶予も許されないほど経営状態は厳しい。同年7月、木下さんは取るものも取りあえず社長に就任。88年続いた(当時)名門サーカス団とともに、10億円の負債も引き継ぐ身となった。

 給料がたびたび遅配されるような状況に、団員たちが、次から次へと辞めていった。

「社長になったけど、何もできません、こっちは。みんな志気がないし、会社の中は真っ暗だし。さらには税理士も、“このまま続けて毎年1億ずつ負債を重ねていけば、担保に入っていた木下家の家も土地も失ってしまいます”と」

 事実上の廃業勧告であった。

 だが、木下さんは首を縦に振ろうとはしなかった。

「明大剣道部の時の不屈の魂というか、絶対に負けないという気持ちが湧き上がってきたんですね」

 助けは身近なところからやってきた。

「兄は姫路公演をやろうとして倒れた。それを成功させたいと父・光三に相談したら、“姫路城の前でやれ!”と言うんです」

 姫路市市民の誇りであり、姫路の代名詞ともいうべき場所での興行。話題にならないわけがない。名プロモーターの面目躍如ともいうべきアイデアだった。ところが……。

「姫路城の大手前公園に行ったら、地下駐車場ができている。サーカスの器材は大型なものが多いので、地下駐車場だと搬入のトラックが入れません。父にそう言ったら、“それでもここでやれ”と。それで200トンのクレーンで荷物を手前で下ろし、最後はコロを使って会場まで運び込んだ」

 父・光三さんの興行師としてのカンと、木下さんの執念が実現させたこのもくろみは見事、大当たり。平成2(1990)年の姫路城大手前公園での公演は、大ヒットを記録した。

ショーの合間にはクラウンたちが登場、コミカルな演技で笑いを誘う。ショーの開始前には観客席に登場、ハイタッチも 撮影/渡邉智裕
ショーの合間にはクラウンたちが登場、コミカルな演技で笑いを誘う。ショーの開始前には観客席に登場、ハイタッチも 撮影/渡邉智裕
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 だが翌2月28日──。

 最愛の兄・光宣さんが死去。享年45歳だった。弟が立派にやれることを見届けたかのような、そんな旅立ちであった。