「来世で結ばれるために指輪を買って」

 家庭生活があり、おおっぴらにはデートできない二人。そのため、紗香と健介は、仕事の合間を縫って平日の昼間に高速で車を飛ばして、岐阜まで行くことにした。途中、道の駅でソフトクリームを食べて、駅前をまるで恋人同士のように腕を組んで歩く。それが、紗香にとっては無性にうれしかった。

 普通のデートの後、シティーホテルに入ると、健介が後ろから抱き締めて、キスの雨を降らせた。さらに、そのままセックスにもつれ込むという、“オス”の一面ものぞかせた。無造作に左手の薬指を紗香に絡めて、羽交い締めにしてくる健介。しかし、そこには、いつも結婚指輪が光っているのを紗香は横目で見ていた。

「この指輪をつけながら、よく私のこと抱けるよなと思うこともあります。多分、彼は結婚指輪とか特に意識せずに、はめっぱなしだと思うんですけどね。だから、“私にも指輪を買って”って言ったんです。次に生まれ変わったら一緒になりたいから、その時のために、婚約指輪が欲しいって」

 健介は少し沈黙した後に、「いいよ」とつぶやいた。そして、二人は何度も何度も身体を重ねた。

 そんな甘い時間を過ごしても、家に帰ると、待っているのはいつもと何も変わらない夫との家庭生活だ。

 夫が居間でテレビを見ている。その呑気な姿を見て、紗香はふと、夫がよく友人たちに豪語していた言葉を思い出した。

「女性の40代は一番盛ってるって言うけど、ウチは全然(性欲が)ないんだよね」

 全然ってあなた、あたしのこと何も知らないくせに――。台所に立って、包丁で野菜を切りながら、心の中で夫にそう毒づく。紗香は、さらに健介との逢瀬を思い出し、たった一人だけの秘密にクスクスと笑いが止まらなかった。

「何かいいことあったのか」。夫が、機嫌がいい妻にまんざらでもなさそうに話しかけると、紗香は「昨日のテレビ番組」と言ってごまかした。

 紗香の不倫関係のゴール、終着点とはいったいどこなのか。

「このまま、不倫関係が続いて、どこまで行くのか考えることもありますよ。でも、それを言ったら、健介さんの奥さんが先にころっと逝くかもしれないじゃないですか。奥さんがいなくなったら、健介さんは私を頼ってくれるんじゃないかと思ってるんです。がんとか、病気だってあるし、先のことは分からないですよね。だから、このままの関係を維持していけたらいいと考えています。

 確実に言えるのは、彼とは、あまり近い関係を望んでいないということ。近すぎる夫との関係で失望したから、健介さんがいて当たり前の存在になるのが嫌なんです。夫とは一緒にいるけど、男女としては終わった。それを悔いてるんでしょうね」

 結婚生活って、まるで写経みたい。延々と同じ文字を映す作業が、楽な人にはすごく楽だけど、辛い人にはめちゃくちゃ辛いから――、紗香はどこを見るともなく、最後にそうつぶやいた。それは言い得て妙だった。

 姑が亀裂を入れた家庭という牢獄で、傷ついた紗香が踏み込んだ不倫の世界は、結婚生活で崩壊寸前だった自分を取り戻すための唯一の手段であった。そのぐらい、紗香は結婚生活というものに追い詰められていた。だからといって、今さら、その生活から逃れられるわけではない。

 紗香は、あるカウンセラーから「精神が病んでしまうのを防ぐには、不倫を続ける以外に方法がないかもしれない」とまで言われたという。

 取材を終え別れた後、人ごみの中に消えていく紗香の凛々(りり)しい後姿を見つめながら、その言葉には一面の真実があるような気がしてならなかった。


<著者プロフィール>
菅野久美子(かんの・くみこ)
1982年、宮崎県生まれ。ノンフィクション・ライター。
最新刊は、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)。著書に『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)などがある。孤独死や特殊清掃の生々しい現場にスポットを当てた、『中年の孤独死が止まらない!』などの記事を『週刊SPA!』『週刊実話ザ・タブー』等、多数の媒体で執筆中。