好奇心旺盛な負けず嫌い、女性初の管理職に

 3人きょうだいの末っ子の若宮さんには、91歳、86歳の兄がいる。

「妹が急に雲の上に上がっちゃった感じ」と感慨深げなのは次兄の若宮和夫さん。毎年のように一緒に旅行に行くなど仲がいい。

「妹の名前で検索したら、イタリア語、アラビア語、ヒンディー語など、いろいろな国の記事が引っかかってきて、面白かったですよ。妹はいつか何かをやると思っていましたが、ネット時代だからここまで有名になったんでしょう。努力もあるでしょうが、昔から運もいいんですよ」

 和夫さんによると、幼いころから若宮さんの意志の強さは際立っていたそうだ。

「1度機嫌をそこねると、そこらへんに寝ちゃって、幼稚園の先生が何を言っても聞かない。大物というか、怪物というか(笑)。好奇心もものすごく旺盛で、とにかく元気がよかったですね。おふくろは田舎の村長の娘で、勉強でも走るのでも、何でも1番じゃなきゃダメだという人で、妹はそっくり。負けず嫌いでしたね」

子ども時代の若宮さん。2、3歳くらい。幼いころから好奇心旺盛で負けず嫌いだった
子ども時代の若宮さん。2、3歳くらい。幼いころから好奇心旺盛で負けず嫌いだった
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 若宮さんは1935年、東京の阿佐ヶ谷で生まれた。6歳のとき太平洋戦争が開戦。空襲がひどくなると長野県に学童疎開した。親が恋しかったというよりも、食べるものがろくになく、いつも空腹でひもじかった記憶のほうが鮮明だという。

 会社員の父の転勤で家族そろって兵庫県に行くことになり、準備のため東京に戻ってきたら、毎晩のように空襲があった。

「照明弾や焼夷弾がダーッと降ってきて、機銃掃射が始まるのを、何か他人事みたいに、あっけにとられて見ていました。死ぬんじゃないかと大人たちが話してましたが、まだ9歳の私は死ぬって意味がよくわからなかったですね。幸い、うちの一角は焼け残りましたが」

 兵庫県で終戦を迎え、東京に戻ったのは中学2年になるときだった。新制中学に切り替わったばかりで、外地から引き揚げてきた作曲家が担任になるなど、教師もバラエティーに富んでいた。

 高校は難関の東京教育大学(現・筑波大学)附属高校に進んだ。

「私、今でもそうですが、自分のしたいことをしたいんです。それにダメモト主義ですから、受けたら受かっちゃったの。私より成績がいい人はいっぱいいたのに。なんかね、ものすごく運がいいんですよ。まあ、図々しくてあがらないから、本番に強いって説もありますが」

 卒業を前に就職の本を買って調べたら、給料がいちばんいいのが銀行だった。大手都市銀行の試験を受けると、見事に合格。ところが──。

「まだ機械化もコンピューター化もされてなくて、すべて手作業の時代。不器用な私はついていけなくなっちゃったんです。算盤を手早くやったり、お札を数えたり、言われたとおりキチンとこなすのが苦手で。ちょっとした病気をきっかけに、うつ状態になり長期欠勤したり……。いろいろ迷惑をかけましたが、辞めさせられないですみました」

 20代のころ、結婚を考えた相手がいた。だが、学園紛争のさなか音信不通になってしまったという。

 ふと思いついて、聞いてみた。

「その相手が忘れられなくてずっと独身だったんですか?」

 若宮さんはしばらく考えて、冷静に答えた。

「もしかすると、そうかもしれないわね。でも、逆に言えば、独身だったから、仕事をしながら毎年、海外旅行に行ったり、いろいろやりたいことをできたんですよ。当時は結婚して子育てをしながら、ほかのことができるような時代ではなかったから」

 高度経済成長を経て銀行業務の機械化が進むと、風向きが変わってきた。算盤を手早くやるより、アイデアマンが重用されるようになり、若宮さんは花形部署である業務企画部に配属された。

 もともと好奇心旺盛な若宮さんはさまざまな提案をした。例えば、今ではコンビニで各種料金の支払いができるが、その回収代行制度のもとになるアイデアを出したのは若宮さんだという。

「すごい!」と驚くと、「もちろん、私ひとりでやったことじゃないですけどね」と謙虚に付け加えた。

 ’85年の男女雇用機会均等法制定を前に、若宮さんの銀行でも女性が管理職登用に関係する試験を受けられるようになり、若宮さんは女性で初めて企画部門の管理職になった。子会社への出向を経て62歳まで働いた。

40代のころ。都市銀行に勤めていた女性初の管理職になった
40代のころ。都市銀行に勤めていた女性初の管理職になった