モヤモヤの正体は「世間が主語」

 生き方は人それぞれのはずなのに、「産む・産まない」の話になると、なぜか主語が世間や親、あるいは国家へと飛躍します。

イラスト/安彦麻理絵
イラスト/安彦麻理絵
すべての写真を見る

「周りが産んでいるから」

「親に孫の顔を見せてあげたいから」

「少子化を止めるためにも産むべきだ」

 と。すごいなぁ。人のために、親のために、お国のために生きているのか……。すみません、そこまで考えられないです、私は。

 ひとつ心配なことがあります。自分以外の誰かが主語になってしまうと、必ず「人のせい」にしたり、選択や決断に後悔したりしませんか? 

 産むも、産まないも、自分が主語であればいいし、自分で決めたことならば突き進むしかないわけです。転職も結婚も離婚も妊娠も出産も、主語が他人に乗っ取られないよう、なりすまされないよう、ということを書いたつもりです。

 今回は、「産む・産まない・産めない」「不妊治療」「家族との距離感」「不干渉の母」「別居婚」など、いろいろなキーワードがあります。共感というよりは、「改めて自分と向き合う」効能があるといいなぁと思っています。

 というのも、私は「子どもを産まない人生を選んだ人の代弁者」ではありません。あくまで読んでくれた人が主語で、「あ、そうか、私の人生の主語は私だ」ということに気づいてもらえれば本望です。

孫なんかいらない・面倒くさい

 いまだにテレビドラマでは「孫の顔を見せてあげたい」というシーンが出てきます。世間の親たちはそんなに孫を欲しがっているものなのか。私の母に、孫が欲しいか、羨ましいと思うことがあるか聞いてみたところ、いい感じで突き抜けた答えが返ってきました。