不倫相手の妻がまさかの妊娠

 ある日、弘子は浩平に勧められて地元のコーラス部に入った。しかし、そこでは、浩平が若いママたちと親しげに会話をしている姿を目にすることになった。浩平は根っからの遊び人で、これまでも複数の主婦たちと付き合っていた。

 女たちにちやほやされる浩平を見るのは、弘子には辛かった。帰り道に浩平のことを延々と責めるという日々が続いた。

「お前、おかしいよ。なんで恋人気取ってんの?」

 浩平は、そんな弘子の態度に嫌悪感を露わにした。

 コーラス部で休憩時間にコーヒーが回ってきた時のこと。カフェインが苦手な弘子は、思わず浩平に「悪いけど、私コーヒー飲めないから、飲んでくれる?」とお願いした。すると、浩平は終了後、二人きりになった際に、「何様のつもりなんだ? お前がそういう仕草をすると、周りの人からどう思われるか考えろよ!」と怒った。

 弘子にとっては、たった一人の相手でも、浩平にとっては数多の遊び相手の一人でしかない――。その事実は、弘子をひどく傷つけた。それ以降、弘子の好意は激しい嫉妬になって暴走し、とどまるところを知らなかった。

「公民館の駐車場で、3時間ずっと彼が帰ってくるのを待っていたこともあります。たぶん相手にとっては面倒臭い女だったんです。でも、距離を取りたいのかなと思うと、いきなり電話をかけてきてくれたりするから舞い上がるわけですよ。その繰り返しでしたね」

 妻とはうまくいっていない――。会うたびにそうやって弘子に言い聞かせてきた浩平だったが、それは弘子の身体を弄(もてあそ)ぶための、いわば殺し文句だった。

 弘子の暴走は遂に臨界点に達した。浩平が非情にも妻の妊娠を告げたのである。

「あれほど奥さんは女じゃないと思ってるとか、あいつは俺のことなんて愛してないし、俺はお前だけだって言っていたのに、結局、やることはやっていた。奥さんの妊娠について問いただしたら、“そりゃ夫婦だからな、同じ屋根の下に住んでるんだからやるだろ”と言われたんです。“俺の妻でもないのに、思い上がるのもいい加減にしろ”って。

 今思うと、あたしはそのとき、相手の人格とかを見極めないまま、寄りすがっていただけだったんだと思います」

 浩平から妻の妊娠を突きつけられて、一気に頭に血が上ってクラクラと眩暈(めまい)がした。“いっそのこと奥さんのお腹を引き裂いてやりたい”――。弘子はそんな危険な衝動を抑えることができなかった。気付くと弘子は、不倫相手の子供の運動会を観覧していた。

「誰にも気付かれないように、帽子を深くかぶって彼の子供の運動会を見に行ったの。あれは本当にストーカー行為だったと思う。そしたら、夫婦の周りをご近所さんたちが取り囲んで、それはそれは楽しそうでした。その瞬間、カーっと怒りが込み上げてきたの。なんかね、自分のものを奪われたような気になったんだろうね。当たり前なんですけど、彼の隣には奥さんがいて、とても幸せそうな顔をしてるんですよ

 お腹を裂くという凶行はすんでのところで思いとどまったが、運動会の帰り道、絶望とも呪詛(じゅそ)ともつかない、どす黒い感情だけが澱(おり)のように残った。

 夫が作った家庭という入れ物の中で、弘子はただの付属品、パーツに過ぎなかった。しかし、目の前には、楽しそうに笑い合う不倫相手とその家族がいる……。

 家庭の中で自動人形のように振る舞うしかなく、心から安らげる居場所を失った挙げ句、弘子は不倫に救いを求めた。しかし、家庭の不和を遠ざけて、「心」を求めれば求めるほど、弘子の行動はストーカーのような体をなし、不倫相手はそんな彼女に嫌気がさして遠ざかっていく。弘子は引き裂かれそうな苦しみの中にいた。それでも不倫は止められず、一種の嗜癖(しへき)のように誰かの温もりを渇望した。

 そう、それは弘子にとって、自己を助ける「救済」の手段だった。

 だが、浩平とは、妻の妊娠を機に破局した。しかし、弘子はそれでもまだ見ぬ相手を探し続けた。

 それは、かつてない禁じられた旅の始まりだった。

(後編に続く)

*後編は9月17日に公開します。


<著者プロフィール>
菅野久美子(かんの・くみこ)
1982年、宮崎県生まれ。ノンフィクション・ライター。
最新刊は、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)。著書に『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)などがある。孤独死や特殊清掃の生々しい現場にスポットを当てた、『中年の孤独死が止まらない!』などの記事を『週刊SPA!』『週刊実話ザ・タブー』等、多数の媒体で執筆中。