「お父さん、お願いだから私を解放して」と離婚を懇願

 弘子は、夫に何度も離婚を懇願したが、夫はそれを聞くたびに怒り狂い、眼前で離婚届をビリビリと破いた。そのため、話は離婚調停に持ち込まれることになったのだが、品行方正そうな調停委員たちは、「そんなのどこの家庭でもよくある話よ」と訳知り顔で諭し、離婚を思いとどまるように説得した。予想外の展開に言葉を失った。調停委員たちは、いくら弘子がDVの現状を訴えても、全然聞く耳を持たなかったのだ。

「私は経済的に自立したいと思っていたけど、そんな私を旦那は馬鹿にしていた。そうはいっても、食っていけねぇだろ、と。“離婚したいだの、一人になりたいだの、よくそんな口が叩けるな。俺が食わしてやってるのに”。そう言われると、何も言えなかった。でも、何度も“お父さん、お願いだから私を解放して”って泣きついた」

 弘子は根気よく離婚調停を続けた。夫との離婚が成立するまで9か月を要した。

 手に職をつけることの必要性を強く感じた弘子は、紆余(うよ)曲折あって現在の介護福祉士という資格を2年がかりで勉強し、手に入れた。

 弘子は、離婚して一度は家を出たものの、子供からの要望があって、現在は元夫と住んでいる。

「夫は一人では何もできないし、放っておけないという気持ちもあります。やっぱり結婚生活30年も経つと、完全には切り捨てられない。旦那は病んでるんですよ。きちんと愛情をもらわずに大きくなってるし、愛情表現もまともにできない。要するに、病んでる夫のところに、愛情溢れる家庭で育った私が来て、そのせいで私も病んじゃったんだなぁと。今振り返ってみると、その結果が不倫だったんだと思いますね」

 60歳に近くなり、年老いた元夫は、もはや弘子の仕事に何も言わなくなった。弘子は現在、仕事の合間を縫って3歳年上の恋人と月に2回ほど会っている。セックスもするし、外で堂々とデートもする。

 それは、弘子がずっと待ち望んでいた、身体だけの関係ではない、普通の恋人同士のような関係だった。

「例えば、雨が降ってきて、私しか傘を持ってなかったことがあるの。“いや、僕が持つから。腕を組んでくださいよ”って彼が傘を持って相合傘をしてくれた。もう、それだけで幸せな気持ちになる。私、そうやって相手に必要とされるのが好きなのかもしれない

 元夫とはいえ、恋人がいることを悪いとは思わないのだろうか? 単刀直入にそれを尋ねてみた。

「私ね、お父さんに今まで本当に尽くしてきたし、今も尽くしてるんです。もし病気になって身体が動かなくなっても、最期をちゃんとみとるって決めているの。だから、恋人がいても罪悪感は全くない。そう、でもね、いくら私に求められても、心だけは縛ることができない。もし、咎(とが)められたら、“これ以上、私に何を求めるの?”って言うかな」

 弘子のまっすぐな目が私を捉えていた。

 不倫は良くない、不倫はダメだ、そんな倫理を振りかざしても、不倫に走らざるを得ない個々の心情と、その心情を作り出す悲惨と向き合わなければ、根本的な解決には至らない――私にはとても彼女の足跡を断罪することができなかった。

 それは、弘子の生活が何十年もの時を経て、今ようやく輝きだそうとしているからでもある。元夫は、そんな弘子の新しい船出を全く知らない。知ったところで、すでに離婚しているので、口を挟む権利もないかもしれない。

「今は、幸せですね。不倫で得たことは、自分もそうだったんだけど、みんな自分を愛せていないってことかな。あと、女は自立したほうがいいです。仕事は楽しい。介護の仕事は、汚かったりするし、夜勤もあるし、辛い時もあるけど、何よりも利用者さんから“ありがとうね”って感謝されるのは、“いや、こっちがありがとう”って言いたいくらい、うれしいことなんですよ」

不倫体質」を自称する弘子の人生にとって、不倫は最初、逃避の手段であり、一つの救いであった。しかし、それが次の扉を開けるための起点となった。びくともしない扉に思われたが、文字通り体当たりでこじ開けたのだった。

 一人の自立した人間として元夫と向き合えるまでに、思えば何十年もの歳月がかかった。夜勤明けで疲れていても、家に向かう弘子の足取りは不思議と軽い。

 夫は年を取ったこともあり、家にいても寝ていることが多くなった。何よりも弘子との婚姻関係がなくなって、経済的に独立したこともあってか、弱気になって何かと頼ってくるようになった。

「お父さん、私なんて付属品だと思っているくせに、“アイス食べたい”とか、メールを送って甘えてくるんです。変なやつでしょ」

 そんな元夫のために「これからアイスクリームを買って帰ります」と言って、弘子はとびっきりの笑顔で一礼すると、帰宅ラッシュでごった返す駅の構内に消えていった。


<著者プロフィール>
菅野久美子(かんの・くみこ)
1982年、宮崎県生まれ。ノンフィクション・ライター。
最新刊は、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)。著書に『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)などがある。孤独死や特殊清掃の生々しい現場にスポットを当てた、『中年の孤独死が止まらない!』などの記事を『週刊SPA!』『週刊実話ザ・タブー』等、多数の媒体で執筆中。