京菓子界で初の「女将」を名乗る

「笹屋伊織のためになると思えることは、なんでもやってみました」という田丸さん。同店は、京都以外の百貨店にも出店しているが、地方の従業員は本店のことをよく知らない。そこで、近況を伝えるため、『笹の葉さらさら』という手作りの社内報を作って各店舗に配りはじめた。

 テレビやラジオなどメディアの取材も積極的に受けるようになった。自らが出演してお店のよさ、職人の素晴らしさ、京菓子のこぼれ話、お菓子の食べ方やマナーなどを伝えていった。

 修学旅行生を受け入れてお店で講演したのを機に、ポツポツ入るようになった講演も快く受けた。さらに、大丸京都にカフェ形態の「京都イオリカフェ」を作ってからは、毎月、カフェ内でも、定期的に講演を行うようになった。

 メディアに出てしばらくしたころ、田丸さんは「笹屋伊織十代目女将」を名乗りはじめる。京菓子の世界で「女将」を名乗ったのは彼女が初めて。これは京菓子界にあっては、異例中の異例のことだ。この世界はいわゆる男性社会、裏で主人を支え、店を手伝う「奥さん」と呼ばれる人はいても、積極的に表に出る「女将」と呼ばれる存在はいなかったのである。

「最初は、『笹屋伊織十代目当主夫人』と紹介してもらいましたが、何のことかわかりにくいでしょう? すっきり、わかりやすく伝えるには『笹屋伊織十代目女将』が最適でした。名乗る前は、伝統から逸脱しているのではないか、そのせいで笹屋伊織の名前に傷がついたらどうしようと悩みましたが、主人が“そんなことは気にしないでいい。もしも誰かに文句を言われても僕が守るから”と言ってくれたので、思い切って挑戦できました

 女将と名乗るのは、夫とともに前線に立って暖簾(のれん)を守っていこうとする彼女の覚悟の表れだった。

メディアの取材を受け入れはじめたころ。テレビの取材で来た北野誠さんと。右はご主人の道哉さん
メディアの取材を受け入れはじめたころ。テレビの取材で来た北野誠さんと。右はご主人の道哉さん
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失敗も挫折も自分の肥やしに

 もちろん、失敗したり、挫折しかけたこともあった。

 仕事上の最も大きな失敗で、かつ、教訓を得たのは、嫁いで間もないころ。あるとき、結婚式の引き出物に出す生菓子の注文を受け、「日曜日の披露宴で使うが、前日の土曜日までに東京の結婚式場に届けてほしい」とお願いされた。そうなると、2日前の金曜日に作らなくてはならない。生菓子は、ねっとりした口当たりと上品な風味を味わってもらうため、2日置いたものは売ってはいけない決まりがあった。

 丁寧にお断りしたものの、先方は京都出身で、「娘の結婚式の引き出物に京菓子を入れるのが夢だった。事情は出席者にも説明するから売ってほしい」と譲らない。田丸さんは、風味を多少犠牲にしてでも「お客様の夢を叶えてあげたい」と、職人に内緒で独断で受けてしまう。

 金曜の夕方まで従業員総出で作業して、あとは発送のみという段階で、当時の工場長に「これで明日の披露宴に間に合いますなあ」と言われたとき、思わず、「実は、披露宴はあさってです」と正直に言ってしまったのだ。

「職人は、“それはあきまへん。かとかと(固く固く)なりまっせ”と、今、作り終えたお菓子は全部破棄して、翌日改めて作り直すと言うのです。そこからは、私がどんなに泣いて頼んでも、作り直しの一点張り。お客様に事情を説明したところ、職人の心意気に感激され、土曜発送、披露宴当日到着で了承してもらえましたが、私にとってはとりかえしのつかない失敗でした。同時に、職人の頑固なまでの誠実さ、こだわり、芯の強さを感じ、これが笹屋伊織を支えてきたのだと痛感しました。真のお客様第一とは何か、改めて考えるきっかけにもなりました

 挫折しかけたこともある。名古屋駅に直結している名鉄百貨店の「京都イオリカフェ」で月に1回行う4回講演は、今でこそ瞬く間に満席になってしまうが、当初は閑古鳥が鳴いていた。京都以外の場所で、人集めは苦戦した。あるとき、翌日に講演があるというのに、予約が2席しか埋まっておらず、心がポキッと折れてしまう。

 こんなに大変な思いをしてなぜやらなければならないのだろう? 急きょキャンセルしてやめてしまおう。そう思って布団に入ってふて寝したが、突然、夜中に飛び起きた。

「(逃げないって決めたじゃないか)と思い出したのです。逃げるのは、高校でおしまい。そこからは、いただいた名刺の束を出し、片っ端から何時間もかけて講演会の案内メールを出し続けました」

 蓋を開けてみれば、翌日の講演会は満員大盛況。メールを見て興味を持った人がたくさん来てくれたのだ。物事から逃げずに、全力で立ち向かう。それを体現する出来事になった。