順風満帆の中、発病の診断

 先々のチャンスをつかんでいくには、今、がんばらなくては。大学3年生の終盤、上達の手応えを感じ始めたころ身体に異変が起こり始める。

「しょっちゅうお腹が痛くなって、1日に10回や20回はトイレに行っていました。でも慣れとは恐ろしいもので、お腹が痛くてたまらなくても、寝て起きたら“うん、昨日よりマシやな”って、また学校に行ってしまうんです」

 そうしている間にも症状は悪化、体重もみるみる落ちていく。ある日、ついに立っていられないほどの激痛に襲われ、病院に担ぎ込まれる。

「診察で先生が私の腸と健康な腸のレントゲン写真を並べてくれたとき、私はア然としました。健康な腸は、人体解剖図でおなじみのモコモコした形。だけど私の腸には、そんな箇所がひとつもない。あちこち細くなっていたりねじれていたりで、ひと言でいえば“グチャグチャ”でした」

 ここでクローン病との診断を下されるが、「一生、治らない」と言われても理解できなかった。何しろ今まで病気ひとつしたことがない。治療すれば、自分の腸も健康になると思っていた。だが、すでに病状は緊急入院を要するほど悪く、絶食とステロイド剤による治療に入る。

「するとウソみたいに腹痛がおさまるんです。当時は夢まっしぐらで、病気どころではありません。みんなに後れをとりたくない一心で先生に何度も訴え、何とか2か月で退院させてもらいました」

 大学に戻り、卒業に向けてさらに邁進。無事に卒業が決まったところで、また大きな病変が起こる。今度は3か月の絶食入院が必要と言われた。

 実は、卒業後にフランスへ留学することが決まっていた。まさに「卒業したら留学、留学したら国際コンクール」と思い描いていたプランの、大きなステップをひとつ上がるところだったのだ。

 そこにドクターストップがかかったうえに、「留学はもう一生、あきらめてください」と告げられる。

大学卒業時のコンサートにて
大学卒業時のコンサートにて
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腸の大手術。ついに夢を断たれる

 だが、挫折はしなかった。

「留学できないことになったのは、もちろん悲しかったですよ。でも、海外がダメなら、日本で認められるようにがんばろうって、気持ちを切り替えられたんです」

 チャンスは自分でつかむ。退院後には国内での演奏活動を開始。フルートのアンサンブルで全国ツアーも達成する。腹痛、発熱、下痢に襲われ続けたが、薬で発熱と痛みを抑え、メンバーの前でもステージの上でも笑顔を絶やさなかった。アンサンブル時代の後輩、喜多優美氏は言う。

「先輩は、いうなれば努力と有言実行の人。私から見ると“なんでそこまでするん?”というくらい熱心で、しっかり私たちを率いてくれました」

 

 しかし27歳のとき、発病以来最大の危機に見舞われる。腸閉塞が破裂して緊急手術、生死の境をさまよったのだ。

「誰かに取って代わられたくないばかりにむちゃをして、バカだったなとは思います。でも、あれだけがんばったから、全国をまわったという1ページが私の人生に加わりました。もし、むちゃしてでも音楽を続けなかったら、おそらく私は、病気しかない人生を歩んでいたでしょう」

 だが、かつて担任の先生に言われた「人より少しだけ上手にできること」をしていく道は、もう見えない。別の夢を見つけることもできない。挫折感に打ちひしがれた。

「もし別のことでがんばれる状況だったら、きっとまた、気持ちを切り替えたと思います。でも、それすらできないくらい、ひどい病状でした。するとどんどん、自分の中で真っ黒い感情が膨らんでくるんです。音楽仲間が活躍している様子が伝わってきたりすると、“私だって病気さえなくて音楽を続けていたら”なんて、どうしても思ってしまう。人として、いちばん醜い感情に心が支配されていきました」

 泣いて何とかなるなら、いくらでも泣く。でも泣いてもどうにもならない。ただただ生きることがしんどかった。

「どん底でしたね。当時、処方されていた睡眠薬を前に“これ全部飲んだら死ねるんかな”と思っても、死にきれなかったときのことを思うと踏み切れない。生きることを考えられず、死ぬことも選べず、“手術のときに死んでたらよかった”とまで思っていました」

 手術後の主な対処法は、在宅IVH(中心静脈栄養法)というもの。消化器官を働かせずに栄養補給をするために、「静脈リザーバー」と呼ばれる器具を手術で皮下に埋め込み、そこに毎晩、自分で針を刺して栄養剤を体内に注入する方法だった。

 退院後、さくらいはひとり暮らしを始める。先のことを何も考えられないまま、ただ生きるために点滴を続ける毎日。そんな中、大災害が起こる。1995年1月17日の阪神・淡路大震災である。