(2)姑のいじめにもめげず

 おまけに、吉本家に嫁いだせいを待っていたのは、姑ユキのいじめ。ユキは舅の後妻だったため、吉兵衛にとっては継母。息子ともうまくいってなかった。そのためか、嫁に対しては必要以上に厳しい態度で接していたという。

「例えば、厚子と呼ばれる仕事着で着ていた木綿織物を、姑の命令でせいは何枚も洗わされたのです。厚手の木綿を手洗いで洗うのは大変な重労働で、手のひらの皮がむけてしまい、たらいが血で染まってしまったそうです」(前出・文芸評論家)

 また、姑のケチぶりも有名で、倹約家に奉公していた彼女でも閉口したほど、お金に関してもうるさかった。晩年には、せいが当時のことを思い出し姑にされた仕打ちを周囲に話していたということからも、よほど嫁姑の闘いが厳しかったのだろう。

吉兵衛(左)や娘たちと過ごすせい。事業を支えた弟の正之助(右)も一緒に
吉兵衛(左)や娘たちと過ごすせい。事業を支えた弟の正之助(右)も一緒に
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(3)夫の道楽が成功のカギに

 倒産後はせいの内職などで家計を支えていたが、そんなときに吉兵衛が天満宮裏にある寄席『第二文藝館』を買うことになる。

 権利金など500円(現在で200万円ほど)かかったが、これを彼女の実家などから借金し、用立てた。

 だが、文藝館は端席と呼ばれる格下の小屋で、客の入りは悪かった。そのため、人件費を抑えるためにせいが自ら入り口に座って客の対応をし芸人の世話などもした。有名な落語家は出演料が高くて呼べないので、曲芸や剣舞などの色物を中心に興行し、徐々に客足は増えていったという。

「彼女が先頭に立ち、のどが渇いてラムネが売れるよう塩辛いものの物販に力を入れたり、暑い日は冷やし飴を店頭で売り、客を呼び込んだりしたそうです。文句も言わず、24時間全身全霊を込めて働いたのはなかなかできることではないですよ」(増田氏)

(4)吉本拡大と吉兵衛の死

 せいの営業努力により、文藝館は大繁盛。そして1913年に『吉本興行部』を設立し、次々と寄席を手に入れていく。1915年には、伝統のある一流寄席『金沢亭』を買収し、『南地花月』と名づけた。現在も続く吉本の寄席『花月』の1号店である。

 1921年には東京へ進出。翌年、『神田花月』をオープンさせるなど順調に成長した吉本だが、1924年に37歳の若さで夫の吉兵衛が他界してしまう。夫の道楽からスタートし拡大を続けてきたところで、伴侶を失ったのだ。

「吉兵衛が若死にしたときに、泣き寝入りせずに、次々と策を打っていったというのは、当時の女性としては偉いですね。立ち止まらずに前を向いていった。ちょうどそのころ『大正デモクラシー』があったことも大きいと思います。“自分たちは月ではなくて、もともと太陽なんだ”なんていう女性の意見が出てきた。そんな時代が彼女を後押ししたんでしょうね」(増田氏)