「人間って、どこかで自分が生きる意味を求めてしまう生き物で。それに一生懸命になりすぎてストレスを抱えてしまう。でも実際、“生きる”ってもっとシンプルで“息を吸って、吐いている”、それだけのことだと思うんです」

 映画『KOKORO』(ヴァンニャ・ダルカンタラ監督)はベルギー、フランス、カナダの3か国合作。そのため、現場でのコミュニケーションは常に“英語”だったが、國村隼(61)にとってさほど大きな問題ではなかった。

「相手の言っていることは、だいたいは理解できます。ただ向こうが考えもしないような、難しいことをしゃべって伝えるっていう英語の語彙(ごい)力はないので。だからアドリブなんて一切ない。というより、できないです(笑)」

 ’89 年公開の映画『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督)で、故・松田優作の子分のヤクザ役に抜擢(ばってき)され、國村の本格的映画デビューは“英語”で始まった。これが、“言葉の壁”を感じなかった大きな理由のひとつでもある。

映画を本格的に始めたのが『ブラック・レイン』だったので、そのときから必要に迫られて英語は勉強していました。

 香港などを拠点にしていた時期もありましたし、“恥ずかしい”とか、“ちゃんとした英語をしゃべらないと”とか思ってる暇はなかったんです。こっちの意図がちゃんと伝わって、コミュニケーションさえ成立すればいいと、途中から考え方を変えました

 今回の『KOKORO』の重要な舞台のひとつが、赤黒くそびえたつ重々しい岸壁。人生に疲れ、投身自殺する人が後を絶たないその場所を訪れた、ひとりのフランス人女性、アリス(イザベル・カレ)。彼女はそこで、自殺しようとする人を諭して思いとどまらせる元警官・ダイスケ(國村)に出会い、彼を通じて街のさまざまな人と出会いを重ねていく――。

 作品の大きなテーマでもある“生きる”について國村は、

「極端な話をすれば、肉体という入れ物が空間内のある位置を示しているから、自分はそこに存在しているということを自意識の中で確認できる。でも、そこに何の意味があるのかと問われると、一切ないな、と。何か行為というものを起こすことで、初めて意味が出てくるのかもしれない。

 その人が何をするか、何をしたかが大切で。それこそ、生きること自体には意味はないのかも。“生きて、何をするか”が重要なんだと思います

 役作りについて聞いてみると、“普段から作る、というイメージは持っていない”と語る。

「役に対して、準備はもちろんします。自分の中に、ダイスケならダイスケのたたずまいがイメージできるまで、台本は読み込みます。それは絵でいうデッサンの段階。

 あとは、線を整理して、色をつけていく、という作業を現場で行っていく感じ。ひとりでは作れない、監督やスタッフなどと一緒になって作っていくのが映画の撮影というものなんです」