授業を抜け出して、木の下で本を読んで夢想していた少年時代。1週間で辞めたサラリーマン、疑問を抱いた農協勤務。猛勉強の果てにアメリカでチャンスをつかんで開いた政治学者への道。今、甚大な被害をこうむった故郷・熊本のために走り続ける知事の人生に迫る!

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 熊本市の繁華街で空港からのバスを降りると、いつもくっきりと熊本城の天守閣が見えたものだった。今、その天守閣はメッシュのシートで覆われている。県民にとっての誇りのひとつ熊本城は、昨年4月の地震によって甚大な被害を受けたからだ。

 繁華街からバスで15分ほどの県庁へ向かう。

 その人は執務室の前で直立不動の姿勢で待っていた。近づくと手を差し出し、「ようこそ、遠いところからありがとう」と満面の笑みで迎えてくれる。蒲島郁夫・熊本県知事(70)。3期目の初登庁の日にあの熊本地震の本震が起きた。そこから休みなしに働きづめだ。県民に「あれほどの災害時に、蒲島さんが知事でよかった」と言わしめる信頼の厚い知事である。

 筑波大学教授、東京大学教授を経て61歳のとき故郷、熊本の県知事となったが、決してエリートではない。国内の学歴は“高卒”である。だからこそ「人の気持ちに寄り添う」ことができたともいえる。

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 蒲島は1947(昭和22)年、熊本県鹿本郡稲田村(現在の山鹿市鹿本町)に生まれた。当時の名前どおり一面に水田が広がるのどかな村だ。旧満州から6人の子どもを連れて引き揚げてきた両親にとって7人目の子である。

「父は旧満州ではそこそこの暮らしをしていたそうですが帰国したら働く場所もなく、気力もなくしたようです。うちは本当に貧乏でした」

 誰もが貧乏な時代ではあったが、中でもわが家は群を抜いていたと蒲島は笑う。

 一家は父方の祖母の家に身を寄せた。江戸時代に建てられた8畳2間に4畳半ひと間の借家である。4畳半は祖母が使い、2間の8畳は一方をリビング、そしてもう一方を親子9人が使わせてもらった。その後、さらに2人の妹が生まれたのだから、その狭さといったらない。祖母が借りていた田んぼは2反半で家族の食べる分さえ足りない。

 母は必死で働き、9人の子どもたちを育てた。父は定職はもたなかったが、いつも穏やかで優しかったという。

うちが貧乏なんだと意識したのは小学校に入ってからです。弁当に白米を持っていけず、私だけいつも粟の入った黄色いごはんだった。靴も、みんなは布製のズックだったけど私はゴム靴。遠足のとき母がズック靴を買ってきてくれたんです。わくわくしながら箱を開けたらこれが赤い靴(笑)。セールだったんでしょう。私が駄々をこねると、母はその靴を墨で黒く塗ってくれました。ところが遠足の日、その墨が徐々にはげ落ちてきて……。ついに“郁ちゃんが赤い靴はいてる”と大騒ぎ。女の子みたいだとからかわれて恥ずかしかった」