スイスチーム入りを押しかけ直談判

 迎えた2007年。竹内はスノーボード大国・スイスでの武者修行を決意し、自らアプローチを開始する。これまで五輪やワールドカップなどを数多く経験したことで、トップ選手や指導者とのネットワークは持っている。それを駆使して、スイス代表のクリスチャン・ルーファー・コーチに「一緒に練習させてくれないか」と頼み込んだのだ。

「スイスの女子選手に相談して、クリスチャンとアポを取ってもらったら、最初は“スイス代表なので、ほかの国の選手は面倒見れないよ”という回答だったんです。それでも諦めずにお願いを繰り返しているうちに、“じゃあ、夏のキャンプだけおいで”と折れてくれた。さっそく現地に向かいましたね」

 スイス代表にはトリノ五輪パラレル大回転でワンツーフィニッシュしたフィリップ・ショッホ、シモン・ショッホ兄弟もいた。世界トップの2人を質問攻めにするなど、竹内は得られるものはすべて得ようと貪欲にアタックしたという。

2008年ごろ。スイスの仲間と米国ユタ州モアブを訪れた。彼女らから技術だけでなくオンオフの切り替えの大切さも学んだ。ライバルのクンマー選手 (中央)とフレンツィ選手(左)と
2008年ごろ。スイスの仲間と米国ユタ州モアブを訪れた。彼女らから技術だけでなくオンオフの切り替えの大切さも学んだ。ライバルのクンマー選手 (中央)とフレンツィ選手(左)と
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「トモカは非常にオープンで誠実な性格で、私たちアスリート仲間にも好意的に受け入れられていました。彼女と過ごした時間は実に楽しく、素晴らしいものでした」と彼らはポジティブなコメントを寄せてくれた。

 遠く離れたアジアの島国からやって来た23歳の女性スノーボーダーの明るさや積極性に2人が刺激を受けた部分も少なからずあっただろう。

 ショッホ兄弟とは「BLACKPEARL(ブラックパール)」というボード開発をともに手がけるようになり、そのビジネスは10年を経て、規模が大幅に拡大している。メーカー側の立場からスノーボードを見ることができるようになったのも、竹内の大きな財産といえる。

 1シーズンを過ごし、飛躍の手ごたえをつかんだ竹内は翌春、本格的にスイス代表チームの中に入って活動したいと申し出る。先方から突きつけられた条件は「トップ16をキープすることと、ドイツ語をマスターすること」

 それをクリアしなければチームに残れない。危機感を募らせた彼女は努力に努力を重ね、わずか3か月間で日常会話をこなせるレベルに到達したというから驚きだ。

「1年目は片言の英語でやりとりしていたんですが、それじゃあダメということになった。2008年の春から1日10時間くらいドイツ語の勉強をしましたね。9~15時は学校で、行き帰りの電車の中や帰ってからも宿題をこなしたりして。それをしないと練習できないと思って命がけで頑張りました」

 と、竹内はすさまじいバイタリティーで困難を乗り切った。

 もちろん周囲のサポートにも恵まれた。当時の彼女はチョコレートメーカー・ロイズと社員契約をしており、そのサポートもあったが、遠征費、コーチング費、生活費もばかにならない。

 決して潤沢とはいえない経済環境の中、語学学習や練習にいそしむ姿を目の当たりにすれば、国籍に関係なく手助けしたくなるのが人情だ。3軒目のホームステイ先であるクルト・ザーンドゥさんもその1人。「ウチにタダで住んでいいよ」と快く受け入れてくれたのだ。

「長男のミハエルがボードのメンテナンスを手がけるサービスマンをやっていた関係で紹介されたんですけど、家事をするなどできることはやりました。スイス人は週末は家族との時間を大切にする。私も彼らとの生活を通して、人としての時間の大切さをしみじみ感じました。だからこそ競技者としても頑張れるんだと思いますね。

 日本にいるとアスリートとしての立場や活動に特化されてしまいがちですけど、スイスで特別に扱われず、竹内智香というひとりの人間として過ごせたのは本当によかった。心から感謝しています」と彼女は柔らかな笑みをのぞかせた。