修業時代、そしてコント55号へ

 萩本欽一はどうやって、コメディアンになったのか。

 萩本は、1941年、東京都台東区に生まれた。

 父親は、大きなカメラ店を営んでいたのだが、萩本が小4のときに経営が傾き突然、貧乏暮らしとなる。

「ある日、お嬢さん育ちだったお母ちゃんが、借金取りに土下座している姿を見ちゃったのね。それで一攫千金ができる仕事をしようとコメディアンを目指すようになった」

 アルバイトを掛け持ちして何とか高校を卒業し、浅草の東洋劇場の研究生に潜り込んだのだった。

「でも、修業を始めてすぐに、あがり性の自分には芸人の才能はないと思った。演出家の先生からも“辞めたほうがいい”なんて言われちゃうし。ただ、先輩の池信一さんや東八郎さんが、“あいつの“ハイ”という返事だけはいい”と言って可愛がってくれたのが救いだった」

 その後も、演技も踊りもパッとせず、セリフもとちってばかりで芸人としては芽が出ることはなかった。

 しかし、ひょんなことからドラムの練習を始めて、叩けるようになると変化が起きた。ドラムの上達に合わせて、一気に踊りもチャンバラもこなせるようになり、なぜかセリフまでとちらなくなったのだ。

東洋劇場に入ったころは、芸人には向かないと言われていた

 何とかコメディアンらしくなった萩本は、東洋劇場の系列のストリップ劇場・浅草フランス座に出向となる。ストリップの幕間のコントで腕を磨けというわけだ。そこで出会ったのが、フランス座の芸人の筆頭、坂上二郎だった。

「いい印象はなかったなぁ。僕が外様なものだから、二郎さんはいつも無茶なアドリブを飛ばしてくる。悔しいから、こっちもアドリブでやり返す。まるで芸の闘い。スリリングで最高に面白かったけど、これ以上やったらケンカになるというくらい火花が散ったっけ」

 半年後、萩本はその坂上との闘いに疲れ果て、フランス座を飛び出した。そして劇団を結成したり、テレビにもチョイ役で出演したりするのだが、ほとんど食えなかった。

 ’66年、萩本は自分で作ったひとりコントのネタを偶然、電話をくれた坂上に話した。

 すると、坂上は、「そのコントは、俺と欽ちゃんで演じたほうがいいんじゃない?」と提案する。

 こうして『コント55号』が誕生したのである。

25歳のときにコント55号を結成。瞬く間に人気者となる

 それからの2人はネタ作りに没頭し、3か月後には日劇のショーに出演を果たし、テレビからも呼ばれるようになっていった。

 萩本25歳、坂上32歳のころだった。