最後の握手。さようなら、二郎さん

 コント55号の快進撃はすさまじかった。

『お昼のゴールデンショー』で人気に火がつき、『コント55号の世界は笑う』『コント55号!裏番組をブッとばせ!!』『コント55号のなんでそうなるの?』など冠番組が続々登場。『裏番組~』の野球拳が大人気となり、学校でも大流行。日本中で「欽ちゃん」「二郎さん」を知らない者はいないほどだった。

コント55号では設定だけ決めてあとは2人のアドリブだった
コント55号では設定だけ決めてあとは2人のアドリブだった
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 それからも活躍は続いたが、次第に萩本はコメディアンとして、坂上は俳優活動が中心になっていった。

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 2011年3月10日。

 萩本は富山での撮影が終わって飛行場へ向かう車の中でラジオを聴いていた。国会中継が流れていたラジオに臨時ニュースが流れた。

「……コメディアンの坂上二郎さんが亡くなりました」

 萩本は「は?」という声を上げたきり絶句した。

 その前年の12月。坂上は2度目の脳梗塞で倒れ、那須塩原の病院に入院し、萩本は見舞いに訪れていた。

 新春の明治座で行われる萩本の新春公演に坂上も出演する予定だったのだ。

「“今回の明治座は無理だな”と弱音を吐いた二郎さんだったけど、よくしゃべるのよ。で、帰り際に“欽ちゃん”と呼び止めて握手を求めてきた。テレくせぇことするなあと思って手を握ったら、ずいぶん柔らかかった。二郎さんは、僕の顔を見てニッコリ笑って何も言わなかった。いま考えたら、あれが“さよなら”だったのかもしれないな。

 訃報を聞いてからも、なぜかしばらくは、悲しくはなかったね。何も実感が湧かなくてさ。でもその日の夜、NHKのニュースでアナウンサーが“二郎さん、最高におかしかったですね”と笑顔で締めたとき、初めて泣けてきたんだ

 坂上死去の翌日、あの大震災が発生。坂上の葬儀は、震災の翌々日だった。

「新幹線は動いていないから、上野から宇都宮まで在来線に乗って、そこからタクシーで4時間かけて向かったんだ。大震災の影響もあって、二郎さんの娘さんも参加できず、とても寂しい葬儀だったね」