テレビやアイスショーで活躍中の安藤美姫

 平昌オリンピックを目前に、元日本代表の選手たちは何を思い出し、何を現役選手に伝えたいのか。オリンピックを2度経験した、フィギュアスケート・安藤美姫に話を聞いてみた。

「初出場のトリノオリンピックのことは、よく覚えていないんです。競技中のことも」

 安藤はジュニア時代に女子初となる4回転サルコウで脚光を浴び、'03年〜'04年には全日本選手権で連覇。しかし、心には余裕がなかった。

「日本代表の責任感とか、選手としての気持ちが勉強不足でした。家を出ると毎日のようにマスコミさんが待っていましたし、家族にも会えない状態でした。とにかく、人に会うのが怖かったんです」

 18歳の少女は、自分がスーパースターになったことを受け入れられないでいた。不運なことに、トリノの直前に右足小指を骨折してしまう。

「実はケガの痛みよりも心の痛みのほうがつらかったんですよ。でも、10代でいろいろ経験したことが結果的にはよかったと思います。いい意味で人との壁を作れるようになりました。おかげで自分が信じた人だけを選んでいけた」

 日本を離れ生活の拠点を米国に移したこともプラスに。

「なにごとも自分で決めていくスタンスが私に合っていました。コーチとも言い合える仲になれましたし。なにより、自由な私生活を送れるということが素晴らしかったです」

 '07年には世界選手権で金メダルを獲得。ただ、'10年のバンクーバーオリンピックでは5位にとどまった。

「メダルは取れませんでしたが、幸せな時間を過ごせました。もともと優勝するためにやっていたわけではないんです。記録に残るより、人の記憶に残る選手になりたいと思ってきました。

 バンクーバーの後、欧米の街を歩いていて“あなたクレオパトラの娘よね?”と何度も声をかけられました。名前はわからなくても、演目を覚えていただけたことが、とてもうれしかった」

 '13年に出産し、その年の暮れに引退を発表する。

「'11年に1度引退しようとしたんですが、震災で気づかされたんです。これまで自分のために滑ってきたけれど、今回は誰かを笑顔にするために演技をしなくてはと。出産後は娘にあきらめない姿勢を見せたいと思って、全部の試合に連れていき頑張りました。大変でしたけど、人のために滑れることが幸せでしたね」

 平昌に出場する選手たちには、楽しんでほしいと話す。

オリンピックは世界が同じ場所を見つめて、五大陸の気持ちが集まる“スポーツの祭典”です。力を発揮する場ではありますが、世界中の人々とつながりができるということが大切。力まずに自分の演技をしてほしいと思います」

 メダルを取ることだけがすべてではないのだ。