五輪出場は7回! 橋本聖子の運命は1歳で決まった

 女子選手として冬季五輪で初めてメダリストになったのは、アルベールビル五輪のスピードスケートで銅メダルを獲得した橋本聖子。彼女の運命は1歳のときに決まっていた。

「聖子さんはとても丈夫な子どもで、10か月になるころにはひとりで歩くことができたそう。お父さんはそのころから“将来、大きくなったらオリンピック選手にすべぇ”と話していた。

 冗談というわけではなく、2歳になって言葉が理解できるようになってきたころにも、お父さんは“オリンピック選手になるんだぞ”と言い続け、2歳の聖子さんはそのたびにうなずいていたそう。そして3歳になると氷の上に立たせ、スパルタな特訓が始まったのです」(前出・スポーツジャーナリスト)

 冬季だけでなく自転車競技で夏季にも出場。計7回の五輪出場は、赤ちゃんのときからの特訓の成果なのかも!?

「反省してま~す」腰パンスノボ選手の現在の年収

 '10年のバンクーバー五輪で、スノーボードハーフパイプに出場し、8位に終わった國母和宏。名前を聞いてもピンとこない人は、“腰パン”“反省してま~す”というフレーズで思い出すかも?

「成田空港から出国する際、選手が着る公式スーツを“腰パン”で着こなし、全日本スキー連盟などに批判が殺到しました」(スポーツ紙記者)

 また、その後の記者会見で服装について指摘されると、

「チッ……うるせぇな。反省してま~す」と、反省していないような態度で発言、騒動を大きくさせた。彼の現在は?

「國母さんは五輪に出場した当時からプロスノーボーダーとして多くのスポンサー企業を持ち、あの時点でも数千万円の収入がありました。欧米は大会も多く、賞金も高く、また活動を支援する企業も多い。

 現在は結婚し子どもも生まれました。仕事のメインは、自身の滑りを撮影した映像の制作で、彼のDVDは海外を中心に人気が高い。年収はスポンサー収入と合わせて1億円ほどだそう」(スキー雑誌編集者)