井の中の蛙、大海を知らず。初めて気がついた自分の無力さと未熟さ、そして無学さ。ヨーロッパ遠征最終地ドイツのブレーメンに移ると、「今までの日本人選手は女遊びして酒飲み歩くのに、おまえ、まじめだな。大丈夫か?」と心配した先輩レスラーがホームパーティーに連れて行ってくれた。

 温かい雰囲気にホッとしたのか、蝶野は、酔いつぶれて人の家で泣き出した。そのとき、母親とパーティーに来ていたのが、のちに奥さんとなるマルティナ・カールスさんだった。人前で涙をこぼす日本男児に驚き、介抱して宿舎まで送り届けた。「ドイツでは男性は強いというイメージがありますが、蝶野さんは弱くてかわいそうでした」とマルティナさんは述懐する。

 翌日、蝶野は、マルティナさんのバイト先に花を持って行き、片言の英語でデートに誘う。寒い安宿でひとり凍える蝶野を気の毒に思い、マルティナさんは自宅に泊めてくれた。

「とにかく親切だった。困っている人がいたら助ける。当時、まだ黄色人種の差別もあったのに、一緒にいても平気な顔をしていた」

 蝶野が猛アタックを開始したのもつかの間、今度はアメリカのカンザスシティへの移籍が決まった。あきらめられない。つたない英語で移籍先のアメリカからラブレターを書き、国際電話をかけると、別れて1か月もしないでマルティナさんがアメリカまで、来てくれた。

「一緒になると決心して渡米したわけではなく、ただのバカンスでした。でも……好きになった理由は何でしょうね、言葉では言えない。たぶん私も一目惚れしていたんでしょう」(マルティナさん)

人生のタッグパートナー、マルティナ夫人と。2015年11月2日「プロレス30周年記念パーティー&一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会設立記念パーティー」にて
人生のタッグパートナー、マルティナ夫人と。2015年11月2日「プロレス30周年記念パーティー&一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会設立記念パーティー」にて
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 海外のレスラーは自分で仕事を見つけて交渉し、トライアウト(テスト)を受け、そこでのし上がる。2人が一緒に暮らし始めたアメリカ南部の街は、人種差別がひどい地域だった。店の定員にスラングで嫌味を言われたり、プロレス会場では物を投げてくる。

 会社員の父がよく「人は信用するな」と言っていたのは、父も海外での差別と闘ってきたからかもしれない。過酷な環境にもまれ続けた蝶野は、その悪意を逆手にとって客を挑発し、会場を盛り上げるすべをいつの間にか身につけていった。

橋本選手からかかってきた一本の電話

 1988年、カナダのカルガリーにいるはずの橋本選手から一本の電話がかかってきた。問題を起こし出場停止をくらい、スズメを捕まえて飢えをしのいでいるなんていう噂は聞いていた。ことの真相はいまだにわからないが、早く帰国したい橋本選手は、ロスにリハビリにやってきた猪木さんに、そのチャンスを逃すまいと、同期3人の凱旋帰国の話を直訴したらしい。

「猪木さんの闘魂を俺たちがゆずり受ける! 闘魂三銃士として凱旋帰国だ。蝶野、俺たちは期待されている。1試合100万は出るだろう」とまくしたてた。

 橋本選手はどんな人だったのか尋ねると、蝶野はとたんに饒舌になった。

「ほんと迷惑な人間だったよ、ブッチャー(橋本の愛称)は。いつも誰かを巻き込むんだ。田舎者で実は警戒心が強いくせに、野心家。でもまあ……同世代のレスラーが集まると、いつもブッチャーの話になる。みんなに愛された、憎めないやつなんだよね」

「そんなうまい話はないだろ」と怪しみつつも、当時、プエルトリコで闘っていた武藤選手とロスで3人は合流し、成田に到着。そのとたん報道陣のカメラのフラッシュが一斉に焚かれたのだ。「もう俺たちは目が¥マークに。でもギャラは案の定、橋本選手の言う10分の1でしたけどね」

 有明コロシアムで行われた試合で闘魂三銃士がお披露目されたが、すぐに海外に戻され、蝶野は再び、世界各地を転戦する日々が続いた。本格的な帰国命令はその翌年の1989年の秋。ウィーンから始まった海外遠征から、すでに3年の月日がたっていた。