「母は僕に隠していたんです。でも、一緒に歩いていても息切れしたりと、気になっていたんですよ。

 そうしたら、母の携帯にメールが来ていたのをたまたま見ちゃって、がんのことが書いてあったので、“やっぱり”と思いましたね。“なんで隠すの?”っていうのが第一声でした」(水晶)

 だが、2年前はまだ母子2人で音楽活動をしていたころ。今、休んでしまっては息子を支える人がいないと考えた啓子さんは、手術を拒否した。

「音楽活動が大事な時期で、手術以外でなんとか治そうと思いました。3歳で脳性まひと診断されたときから“自分の生きているうちに彼が社会で生きてる姿を見たい”という思いで育ててきました。その思いはがんになっても変わりませんから」(啓子さん)

母への憎しみも大きかった

 そんな母を思い、’17 年3月3日に水晶は初めて1日2回公演を行った。

「普段のコンサートだって手がしびれて悲鳴を上げるのに、1日2回のコンサートなんてできるのかって不安でしたよ。

 でも、とにかく時間がないので早く母の治療費を稼ぎたいと思いました」(水晶)

『脳性まひのヴァイオリニストを育てて〜母子で奏でた希望の音色〜』式町啓子著(主婦と生活社) ※記事の中の書影をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします
すべての写真を見る

 2ステージが終わったあと、彼はロビーで倒れた。“危うく自分の治療費になるところだった”と笑うが、母への気持ちにも変化があった。

「がんと聞いて最悪の結果を考えましたし、目の前が真っ暗になりました。母のことはこの世でいちばん大好きだけど、いちばん憎んでいる存在でもあったんです。

 父と離婚したことを8歳で初めて知って、母としての見方が少し変わったかもしれません。

 子どもながらに“なんで大人は身勝手なんだろう”って考えましたね。さらに障がいで生まれたわけで、母を責めたときもありました。

 憎しみながらも、それ以上に尊敬していたり愛していたりしたので、感情のバランスは難しかったですね。ただ、母はここまで全身全霊で僕を育ててくれたし、感謝しています」(水晶)

 そう語る息子に、

「今まで、こんな言葉で伝えてもらえなかったですし、最近は感謝の言葉ももらうようになりました。彼が脳性まひでなかったら“好きなことをやれば”という感じだったでしょうが、障がいがわかってからは、“障がいがあっても社会に出て幸せに生きられる道を作ってあげないと”という一心で来ました。

 彼がヴァイオリニストとしてたくさんの人の前で演奏して、拍手される姿だけは見たい。せめてそこまでは見届けたいと思っています。シングルマザーですし、環境的にもお金は遺してあげられないのですが、“2人で歩んできた道は間違ってなかったんだな”って思いたいですね」(啓子さん)

 そう話す母子の顔は、希望に満ちあふれていた─。