歌手の西城秀樹さん、63歳。その最後の入院は、家族との最後の時間のためだけに秀樹さんが残りの力を振り絞った時間だった。

 所属事務所関係者は「入院は知りませんでした。亡くなった後に連絡を受けました」。

 17日、昼過ぎに第一報が芸能メディアに届く。フジテレビが速報を流す。

「自宅は取材しないでほしい、というお願いがあり、取材はゆかりの人のコメント取りに切り替わりました。こちらから連絡をしたり、所属事務所から先にファクスが届いたり、ゆかりのある人がブログに気持ちを書いたりしましたが、驚いたのはその数の多さ。トップスターのアイドルが、どれだけ幅広く仕事をしていたのかが分かりますね」

 情報番組ディレクターが、そう伝えて来た。

 高校時代からロックバンドを組み、17歳でデビューした秀樹さん。

 アイドルとして歌い、演じ、2度の脳梗塞を発症した以降も、病身を隠さず歌い続けた。その「本質はロック歌手だった」とスポーツ紙OB記者。こう続ける。

「日本で初めて野球場でワンマンコンサートを開いたのが、西城秀樹なんです。1974年夏、すでにトップアイドルで、テレビドラマでも人気で俳優としても評価されていた。大阪球場で確か、ゴンドラに乗る演出などもありました。そこで歌ったのが、イギリスのロックバンド、キング・クリムゾンの『エピタフ』だったのです」

 キング・クリムゾン。プログレッシブロックの伝説的グループで、イエスやピンク・フロイドといったグループと当時は、世界中の音楽ファンを魅了していた。そのクリムゾンの楽曲を、コンサートでカバーしていたという。

「レッド・ツェッペリンやクィーン、ロッド・スチュワートなど、はやっている洋楽はなんでも聞いていたようです。中でも『エピタフ』は、抒情(じょじょう)たっぷりに歌い上げるバラードで、その歌い方は後のヒット曲『傷だらけのローラ』につながっています」(前出・スポーツ紙OB記者)

 アイドルが、プログレッシブロックの名曲をカバーできた時代。

「コンサートでは、秀樹が好きなミュージシャンを選んでバンドを組んでやっていました。自由度はあったと思いますね」(前出・関係者)

 病後は声が思うように出ずに、自分の録音音源をかけながら歌っていた“ロック・ボーカリスト、Hideki Saijo。合掌。

<取材・文/薮入うらら>