慶應ボーイの神髄について語ってくれた男子慶大生は皆無だったし、この話題を振るだけで、雰囲気が変わって取材が進めづらくなった。なんでそんなに嫌がるのかと不思議に思い、疑問をストレートに投げたところ、ある女子慶大生がこんな話をしてくれた。

「いかにも慶應ボーイというような、社交的なお坊ちゃまは見かけませんからね。私のいる学部に限っていうと、外部生は垢抜けない地味な男子ばかりです。内部生にはおしゃれというか、おしゃれ『すぎる』男子がいるけど、やっぱり地味な子も多い。内部男子は地味と派手の両極端に分かれているんです」(文学部2年女子)

 なるほど。慶應大学には、派手な一部の内部生と、その他大勢の垢抜けない男子がいる。誇張表現として捉えれば、たくさんの男子慶大生に接してきた当方の印象と合致する。そして、その他大勢のほうの立場になってみると、「慶應ボーイって一括りにしないで」という心情が理解できるような気がする。

 日吉キャンパスでたまたま集団取材ができた際、彼ら彼女らはこう言っていた。

「お金持ちは多いと思うけど、お金持ち同士でつるんでいる。特に内部生。うちのように100人規模の大きいサークルの場合、内部生と一緒になることはあるけれども、普段つるむことはない」(フットサルサークルの1・2年生男女)

 内部生と外部生の微妙な距離感、見えづらいけれど、ガッチリ引かれている一線の存在。多くの慶大生の中では「慶應ボーイ≒内部生」となっていて、そこには複雑な思いがある。

石原慎太郎が広めた「慶應ボーイ像」

 かつての慶應ボーイといえば、とにかくかっこよかった。

 石原慎太郎『太陽の季節』(1955年下半期に芥川賞を受賞)は、リッチな家で育ち、「慶徳大学」に籍を置く主人公らが、酒と博打と女と喧嘩に明け暮れて云々というお話だ。

 ハイセンスなファッションを着こなし、ヨットやモーターボートで遊び狂い、気の向くままに複数の女性と関係を持つ登場人物らに、昭和30年代の若者は憧れを抱いた。そして、そうしたイメージが、ほぼそのまま慶應ボーイ像として定着していった。

 あの小説の題材は、作者の弟で慶應義塾高、慶應大学出身(中退)の石原裕次郎の友人のエピソードだとされている。要は、内部生物語だったともいえる。

 当時の日本人は貧乏人だらけであった。お金持ちになることが国民的目標だった。そんな時代にあって、裕次郎的な慶應ボーイの豊かさはさぞかし輝いて見えたことだろう。そして、それから四半世紀も過ぎたら、日本人のうちのけっこうな数が目標達成し、いつの間にかリッチになっていた。