7月23日、埼玉県熊谷市で観測史上最高の41.1度を記録した直後の午後3時。

 札幌市の北海道がんセンターは、がんの専門病院らしからぬ歓声に包まれていた。入り口周辺には、白衣姿で拍手をする人もいれば、『ずっと一緒にいたいから がん検診』と書かれた幟(のぼり)を手にした人もいる。

 そんな人たちの輪の中に、20名ほどの人に囲まれた男性が、『がんサバイバーを応援しよう』と書かれた幟を手に飛び込んできた。

 男性の名は、垣添忠生さん(77)。検診による早期発見や早期治療、生活習慣の改善を呼びかけることでがん撲滅を目指さんとする『日本対がん協会』の会長であり、東京築地の国立がん研究センターの名誉総長。そして自身も腎臓と大腸のがんを患い、がんとともに生きる“がんサバイバー”のひとりでもある。

公益財団法人「日本対がん協会」会長 元国立がんセンター総長 垣添忠生さん 撮影/森田晃博

 この日は全国700万人のがんサバイバーたちを励まして、健康な人には予防と検診の大切さを啓蒙。さらには寄付を訴えるのを目的に全国を縦断した“がんサバイバー支援ウォーク”総距離3500キロの最終日だったのだ。

 ウォークは2月5日、大雪に見舞われた九州がんセンターを皮切りに、四国、近畿、関東、東北、北海道と北上。途中、仕事による数回の中断をはさみながら、全国がんセンター協議会加盟の32病院を96日間で訪ね歩くという苛酷なスケジュール。時折、各地の患者団体の人たちに先導してもらいながらも、1日数十キロを原則ひとりで歩き続ける垣添さんを励ましたのは、幟を見た歩行者からの温かい励ましや、ドライバーたちからの“頑張れ!”という声援、そして日本の美しい風景だったという。

最終日、数十名の支援者に囲まれゴールを目指す 撮影/森田晃博

 がん患者とその家族を支援する『リレー・フォー・ライフ・ジャパンとまこまい』事務局長で、最終日をともに歩いた下村達也さんが、その道のりと熱意に感嘆する。

「(垣添)先生は、今日は17キロぐらい歩いています。77歳とは思えないほどお元気で、足が速い。このウォークで、赤かったリュックはオレンジ色になったと言っていました」

 リュックの色を変えるほどの雨風にさらされて、この日ようやっとゴールイン、月桂樹の冠を贈られて、会心の笑顔を見せる垣添さん。

 だが、もっとも喜んで迎えてくれたであろう人が欠けていた。2007年12月31日に肺の小細胞がんで帰らぬ人となった、最愛の伴侶・昭子さんである──。

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 3500キロを歩き切る不屈の人・垣添さんに、「妻の死後は、自死すらも考えた」と言わしめた人との出会いは、1967年、東京大学医学部を卒業した直後のことだった。

 垣添さんが静かに語りだす。

「卒業したあと医師免許を取るまでの2年間ほど、今はもうない東京都杉並区の病院でアルバイトをしていました。妻の昭子とは、そこで出会ったんです」

 当時の医学生には、医師国家試験受験資格を得る前に、実地訓練を積むことが義務づけられていた。大学病院や総合病院で1年以上、インターンとして安い給料で働くことが欠かせなかったのだ。

東大時代は空手部に所属。年齢を感じさせない体形は、今も行っている腕立て伏せ150回、腹筋500回、背筋100回、スクワット100回、ストレッチの賜物。毎朝計1時間ほど汗を流す 撮影/森田晃博

 東大医学部出身であれば、東大附属病院でインターン研修をするのが通例だ。ところが当時は学園紛争の真っただ中。医学部でも卒業試験や研修のボイコットが相次いでいた。こうした理由で、医学部の仲間5人とともに、先の病院で週1回のアルバイト勤務をしていたのだ。

「昭子はリウマチという診断をされての入院だったかな。後になってSLE(全身性エリテマトーデス)という難病だとわかったんですけどね。

 私は週1回、病院に来る若手医師のひとりとして、外来の診察を手伝ったり、回診を手伝ったり。

 初めての出会いは回診のときだったかな。同じように白衣を着ていても、私は仲間とちがって貫禄がなくて、医師には見えなかったらしい。後になって“心電図かなんかの技師さんかと思ってた”なんて言っていましたね」

 昭子さんはほどなく退院、垣添さんも退院後の患者さんを往診する役目を任された。

「彼女、コーヒーが好きだったから、往診に行くとかならずコーヒーを1杯入れてくれてね。闊達(かったつ)で、話の面白い人なんです。打てば響くように反応する。

 それで、数回会っただけで漠然と“結婚するならこんな人がいいなあ”と。そのうち、“結婚するならこの人しかいない”と思うようになった」

 だが結婚までには、思いもしなかった展開が待っていた。