「その人と結婚するなら自殺します!」

 出会って1か月で結婚を意識したという運命の出会い。だがこの恋には障害があった。

 昭子さんは垣添さんより12歳年上の38歳であったばかりでなく、既婚者だったのだ。夫とは10数年にわたって別居中。離婚協議中ではあったが成立はしておらず、厳密にはまだ人妻の身であった。

 一方、垣添さんといえば、医学部を卒業して間もない26歳。学生とも、医師とも言い切れない研修医という微妙な立場である。そんな2人の熱愛は、周囲を慌てさせるのに十分だった。

結婚したい。12歳年上で、これから離婚することになっている女性なんだ──

 両親にこう切り出すと、2人の表情がみるみる厳しくなっていった。

 英国王子が離婚歴のある年上女性と結婚する時代である。離婚や再婚も、現在ならば珍しくもない。だが、これは50年ほども前の話。垣添さんはこの日以来、四面楚歌(しめんそか)の状態に。数回目の話し合いの場で、とうとう母親が叫んだ。

 “その女性と結婚するなら、私は自殺します!”

「これはいくら話しても埒(らち)が明かないと思ってね。傘を1本つかんで家を飛び出した」

 向かったのは昭子さんの家。2人はその日からともに暮らし始める──。

◇  ◇  ◇  ◇

 がんサバイバー応援のためならば3500キロも歩き切るし、愛する人のためなら、駆け落ちもいとわない。

 そんな垣添さんは、1941年、安田銀行(現みずほ銀行)大阪支店に勤務する銀行マンを父に、4人兄弟の3番目として生まれた。

 ’41年と言えば、太平洋戦争勃発の年である。

「戦争の世代ですから、一時は両親の故郷である飛騨高山の親戚のもとに疎開していてね。食べ物がなくて、ものすごく飢えた覚えがあります」

 1945年、終戦。一家は信貴山のふもと近くの大阪府八尾市の社宅に落ち着いた。

 干ばつ対策として作られていた大きなため池を絶好の遊び場に、4歳の少年は野生動物のように日がな1日、野山を駆け回っては、自然の驚異に目を見張った。

 池辺ではカマキリがギンヤンマを捕らえ、池から巨大な食用ガエルが現れたと思ったら、またたく間にそのカマキリを丸呑みにする。そんな一瞬のドラマなどなかったかのように、静まり返る水面……。

 厳しくも美しい自然のありさまに、生けるものへの興味と敬虔(けいけん)の念が芽生えていった。

「こうした経験が、後に医者を目指すベースになりました」

 父親の転勤により1949年、東京は新宿の小学校に2年生で転入。中学高校は国立市にある桐朋学園に入学した。

奥多摩に採集に出かけた際に撮影。右から4人目が中学1年の垣添さん。桐朋学園では生物部へ入部。中学高校の6年間、特待生だった
奥多摩に採集に出かけた際に撮影。右から4人目が中学1年の垣添さん。桐朋学園では生物部へ入部。中学高校の6年間、特待生だった
【写真】12歳年上妻・昭子さんとの仲睦まじい様子など(全9枚)

 ここでは宮本大典先生の指導のもと、群論や行列式など最先端の数学の面白さに開眼。この経験が東大理科二類受験に役立った。数学の問題を、教えられた行列式を使うことで簡単に解くことができたのだ。

 医学部志望はペットとの別れがきっかけだったと言う。

「高校2年の17歳のときだったか、ペットのシェパードのエドが死んで。ジステンパーという病気にかかっていたんだね。学校から帰って抱っこしているうち、だんだん冷たくなっていって。でも死ぬ前にたびたび痙攣(けいれん)を起こしていた。無知は罪悪だと思いましたよ。痙攣は脳にウイルスがいったせい。わかっていたら、打つ手はあったのだから」

 母親も一因だった。

「病弱でね。それで医学部に行こうと思ったんです」

 垣添さんは母親の反対を振り切るようにして家を出た。もしも医師への道を選ばなければ、両親が望んだような女性と、平穏な結婚をしたかもしれない。垣添さんが医師を目指した一因に、そんな病弱な母への強い思いがあったのは皮肉である。