親子だからわかり合えるは幻想か、理想論だ

 簡単に言えば内弁慶で、他人との関係を築くのがむずかしい性格なのかもしれないが、その根っこには実は親への不信感もありそうだ。近いようで、どこをつかんだらいいのかわからないほど親子の心の距離は遠い。

 息子から見ると、自分が挫折したときの親の態度が意に染まなかったのかもしれない。それをきっかけに長年抱えていた親への不満、それ以上に自身への不満も噴き出して処理しきれていない可能性もある。ただ、人は都合のいいように記憶を修正しがち。根深いところは当事者でもわからない。

「普通に働いてほしい」という願いは、息子の思いとはかけ離れているのだろう。母親のもどかしさは十分理解できるが、そのたびに息子は「まだ自分をわかってくれていない」と考えるのかもしれない。

「親子だからわかり合える」は幻想か理想論だ。実際にはわからないまま許容しあって、いつしか依存しない関係になっていくしかないと私自身は実感している。親子が互いに理解を期待しすぎるのではないかと、裕子さんの話を聞きながらふと感じた。

【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】


かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆。