ブームの真っただ中、着替える暇もなくMr.マリックの格好のまま岐阜にとんぼ返りして法事に参加したときのカット
ブームの真っただ中、着替える暇もなくMr.マリックの格好のまま岐阜にとんぼ返りして法事に参加したときのカット
【写真】素顔のMr.マリックと幼少期のLUNAの貴重な家族写真

 もともとサービス精神旺盛で、にぎやかなことが大好きだったLUNA。「私を見て!」と自己アピールしたり、友人に求められるまま派手な振る舞いを続けたりしているうちに徐々に行動がエスカレート。結果的に世間で言う“問題児”となってしまった。

有名人の父には関心がなかった

LUNA だってもう、私の名前が“マリックの娘”状態だったんだもん(笑)。いや、そうじゃなくて私自身を見てよ、そんな“冠”なくたって、私自身がめっちゃオモロイからとにかく見てよ、っていう気持ちだったんです。

マリック 家には帰ってこないけど、どの友達の家に泊まっているかはちゃんと教えてくれてたよね。最初に考えたのは、家が狭くてLUNAとお兄ちゃんが同じ部屋だから、ひとりになれる空間がないのが嫌で帰ってこないのかな、って。だからLUNAだけの部屋を持たせてあげなきゃって、頑張って働いて働いて、一戸建てを手に入れたんです。

 でも、そのときにはもう子どもふたりともすっかり成長していたから、すぐに家を出てしまった。人生っておかしなものだね。

LUNA あのとき自分の部屋があったとしても、家に帰ってたかどうかはわからないけどね(笑)。

マリック LUNAが小さいころは仕事に夢中で……。家庭を顧みなかったから、自分のことも振り返って反省しましたよ。マジックってね、ひとりで作って、ひとりで練習して、ひとりで演出までしなきゃならない。誰かに手伝ってもらえるものではないから、たったひとつ作るだけですごく時間がかかるんです。もう四六時中、マジックのことで頭がいっぱいでした。

 LUNAが生まれた当時、父のマリックはデパートで実演販売をしつつ、小さなマジック専門店を始めていた。自らホテルのラウンジに頼み込み、腕を磨くために夜は無償で客の前でマジックを披露する。朝から晩まで仕事漬けだった。

マリック かみさんに子育ても任せっきりでした。でも、文句ひとつ言わない。結婚前から僕はこうだったから、きっと言えなかったんだと思う。本当に迷惑かけちゃった。

LUNA お父さんとお母さんが会話しているところ、見たことなかったもん。「行ってらっしゃい」と「お帰り」ぐらい。私もお父さんとはまったく話さなかったし。

マリック 家族旅行はもちろん、どこかに遊びに連れて行ったこともなかったしね。LUNAの誕生日がいつかも忘れていて。

LUNA でも誤解されがちなんだけど、それに対する不満は一切なかった。「私のこと放っといたくせに!」みたいな感情はまったくなくて(笑)。あのときは本当にただ、LUNAという存在を確立したかっただけだったんだよね。

マリック 中学のころから、17、18歳くらいまでそんな状態が続いたね。

LUNA 中学を卒業してからは高校にも行かなかったし。そのころ、お父さんとはろくにしゃべりもしなかったもんね。でも憎しみの気持ちがあったわけじゃなくて、ひと言で言うなら「無」。関心がなかった(笑)。

マリック なんとか話し合いをしようとしても泣いて聞かないし。腫れ物に触るように接したこともあったし、もう元気ならいいや、って放っておいたこともありました。いろんなところに相談にも行ったなあ。東京にいるのがよくないのかと思って、岐阜の実家が広いからそこに行くのはどうかと提案もしたよね。

LUNA いやいや、行かないよね(笑)。

マリック 夢中になれる何かを見つけたほうがいいと思って、何がしたいかを尋ねると「サーファーになりたい」とか言うんです。だからわざわざハワイからサーフボードを取り寄せたんだけど、ただ適当なことを言っていただけ。こっちはもう必死だったのに。

LUNA でもそこから「本気でやりたいこと」に出合えたんですよ、歌のボイストレーニングだけはまじめに行くようになったから。

マリック このボイストレーニングの先生が、実にLUNAをよく理解してくれたんです。学校ではいい先生に巡り合えなかったけど、やっぱり出会いってあるんだなと。

LUNA その先生が私の好きなブラックミュージックにすごく詳しくて。周りにそんな大人がいなかったからびっくりしました。

マリック 結局、自分の子どものことを誰かに頼って解決してもらおうなんていう考えが間違いだったんですね。自分の子どもなんだから、親が本気でぶつかるしかないんです。だからといって、親が先回りしてあれこれ世話を焼きすぎるのもダメ。子どもが自分で見つけなきゃ意味がないんだってよくわかりました。