3畳一間にマギー司郎誕生の原点が

 東京・池袋の3畳一間、ガス、トイレ、水道は共同の風呂なしアパート。日当たりは悪くないそこがねぐらだった。

家賃4500円というのは覚えています。昭和30年代の後半。バーやキャバレーで働いていて、給料は月に1万円くらい。晩飯は店で食べさせてもらえたので、食えていましたね」とマギー司郎は、本名・野澤司郎青年の十九、二十歳のころを振り返る。

 その部屋の片隅に、少しずつ、少しずつ積み上がり、気がつくと結構なスペースを占めていたのが手品道具だった。

「仕事は夜だから、昼間、結構暇でしょ。上野の『鈴本演芸場』に足を運んでアダチ龍光先生のマジックを見ていたので、芸事は好きだったんでしょうね。ある日、雑誌に『あなたもマジックを習って、プロのマジシャンになりませんか』っていう日本奇術連盟の広告が載っていて、週に何回かそこに通うようになったんです。今でいうカルチャーセンターですよ。

 若き日のMr.マリックさんや先代の引田天功さんもいましたね。教室に行くとその都度、何か道具を買わされる。積み上がっていくそれらを見ながら、『これでなんか生活をやっていけたらな』って」

 マギー司郎誕生の原点が、ここにあった。

 当時の電話帳には芸能社、今でいうところの芸能プロダクションに近い興行社の連絡先がずらりと掲載されていた。赤電話に10円玉を入れ、司郎青年はダイヤルを回す(当時はプッシュホン登場前)。

 電話口で、茨城アクセントのつたない表現で売り込みをする司郎青年に、東京・巣鴨にあった芸能社が「ネタ見せにいらっしゃい」と言ってくれた。部屋にある手品道具を持ち、ネタ見せに行くと見事合格! チャンスのしっぽをつかんだ。本名はちょっと堅いから、という理由で「ジミー司」という芸名もつけてもらった。

「しばらくしたら電報が来たんです。僕が電話を引いてないので電報。『○月○日から○日まで、どこどこで仕事』という感じで依頼が来ました。

 最初の仕事先は、京浜急行の生麦駅前にあった『生麦ミュージック劇場』。ミュージック劇場だからライブハウスみたいなところかなと思っていたら、駅を降りたら目の前に、色っぽい踊り子のでっかい看板がありました」

 楽屋に通された。夏だった。今のようにエアコンはなく、映画館も出入り口の扉を開けて営業していた時代。

「楽屋に行ったら、女の子がみんな素っ裸。ライブハウスだと思っていたから、ワケがわからない。ストリップ劇場だったんです。そこから僕の、手品師としての人生がね、始まったのね」