42年前にモロッコで性転換、11年前には戸籍上でも女性に。すべてにおいてのパイオニアかつ伝説ともいうべき存在がカルーセル麻紀さん。破天荒すぎる生きざまや性の遍歴を語ってもらった。

 15歳でゲイバーデビューをしてから、大阪『カルーゼル』で働く19歳まで移り住んだ都市は13都市。全国各地を流転した壮絶の5年間だったとか。

「私は9人きょうだいの次男として生をうけました。“戦争で徹底的に戦える男になれ”との父の願いから“徹男”と名付けられたの。でも、そんな思いとは裏腹に、私の小学校のときのあだ名は“なりかけ”。このときからすでに男性が好きで、自分を指すときに僕とか俺すら言えなかったほど。初体験は14歳のときの学校の番長。丸山明宏(現・美輪明宏)さんの“メケメケ”ブームの影響もあって、ゲイボーイの世界こそ自分の進むべき道だと信じていたわ」

 ゲイボーイになるために、15歳で高校を中退して家出。最初は東京を目指すも、旅の途中で札幌のゲイバー『ベラミ』を知り、門を叩く。

「『ベラミ』での最初の源氏名は“マメコ”。大っ嫌いな名前だったけど、夢への第一歩だから受け入れたわ。でも、釧路の友人に送った手紙がきっかけで足がついちゃってね……。1か月後には釧路に戻ることに」

 しばらく、地元のバーでアルバイトするも「あれが家出ゲイボーイか」と見物客が押し寄せたため、地元を出ることを決意。母に「1年間だけ働かせて」とお願いをしたという。

「兄からは“2度とうちの敷居をまたぐな”って言われたけど、母は“目指すなら一流を目指しなさい”と背中を押してくれて……。その言葉がなかったら、今の私はなかった。母には本当に感謝しています」

 その後は道内を放浪する生活に。

「好奇心が旺盛な時期だから、次第に札幌にも飽きてきてね。それで約1年間、旭川、根室、帯広、室蘭と道内を放浪したの。雇われママになったもののオーナーと大ゲンカしたり、ヤクザに売り飛ばされそうになったり、スポンサーがついてお店を出したものの失敗して借金まみれになったり、惚れた男を女に取られて路上で取っ組み合いのケンカをしたり……。同い年は高校生活を満喫しているのに、私はハチャメチャ。16歳のときに札幌を出てから、19歳で大阪『カルーゼル』に落ち着くまでの3年間で、転居した回数は16回。移り住んだ都市は13都市。源氏名も、アケミ、ナオミ、魔耶……と、数えきれないほど変えたわ」

 カルーセルさんが「マキ」になったのは17歳で東京に進出した時。

20150210 (12)

「北海道、青森でお金を貯めて、銀座の一流ゲイバー『青江』に行ったの。面接のときに名前を聞かれて、“マキタ トオル”って、とっさに答えて。今でも何でその名前を言ったのかわからないんだけど、それで“マキ”に。でも、最初は“魔鬼”だったのよ(笑い)。その名が示すように、ケンカっ早くて、危なっかしいところがあってね。青江人脈でお手伝いに行った熱海にある『のり平』というゲイバーのバーテンと駆け落ちして青森に夜逃げ。以後、男とケンカ別れを繰り返し、札幌、松山、博多、名古屋と、また放浪の旅が始まるのよ。そして、名古屋で壮絶な三角関係の末に“天然”の女に男を取られ、“養殖”の女である私は自分が嫌になって自殺未遂をしたり、身も心もボロボロで大阪にたどり着くの」

 大阪が最後になった理由は意外なものだった。

「どうして大都市・大阪が最後になったかって? 今じゃ考えられないんだけど、そのときは大阪=ガラが悪い、そして、あの独特なノリに苦手意識があって嫌いだった。大阪だけには行かないようにしていたんだけど、もう行くところがなくてさ、大阪で骨を埋める覚悟だった。でも、最後にたどり着いた大阪で、今のカルーセル麻紀となる巡りあわせがあるなんて……。人生ってよくできているのね」