今年で創立73年目を迎える『ひばり児童合唱団』は、安田祥子・由紀さおり姉妹を輩出し、吉永小百合が幼少期にレッスンに通っていたことでも知られている。"歌を通して子どもたちに希望を"という願いのもと合唱団を立ち上げた皆川和子さんは、昨年8月、この世を旅立った。彼女の波瀾万丈な生涯を綴った本『太陽がくれた歌声』(主婦と生活社)を出したばかりである甥の皆川おさむ氏に、一周忌を終えた現在の気持ちを聞いてみると―


 "皆川おさむ"と聞いて、おや? と思われた方も少なくないはず。

 ご存じ、昭和を代表する大ヒット曲『黒ネコのタンゴ』を歌っていた、あの"おさむくん"である。1969年の発売当時、彼は6歳。その後、バラエティーやドラマなどで活躍し、12歳の変声期を機に表舞台から姿を消していた。

「もともと芸能界に憧れていたわけではなかったし、自分には演技の素養がないこともわかっていたので、声変わりして子どもらしい高い声が出なくなったら終わりかな、と自分でもわかっていたんです。だから、いまだに"天才子役の"なんて形容詞をつけられると違和感がありますね。僕は"天然子役"だったから」

 そう言って笑った皆川氏は現在52歳。たれ目の優しい眼差しに当時の面影が残る。音楽大学で打楽器を専攻し、その後は造形デザインを生業としてきた。それがなぜ、合唱団の代表を務めるようになったのか?

 実は『ひばり児童合唱団』の創設者である皆川和子さんは、彼の伯母であり、3歳から合唱団に在籍していた皆川氏に『黒ネコ~』を歌わせたのも和子さんだった。

「当時、歌番組やドラマの現場にはいつも伯母がついて来てくれていて、私にとっては実の母よりも伯母に育てられたような感覚があるんです」

 自宅を兼ねた合唱団の稽古場が目黒区の洗足にあり、和子さんと皆川氏一家はそこに同居していた。生涯独身で子どものいない和子さんにとって、皆川氏はわが子のように愛しい存在であった。

 デザインの仕事をしながらも、"ひばり"の定期演奏会などではパンフレットの絵を描いたり、荷物を運んだりと、何かと合唱団の手伝いをしてきた皆川氏。それでも、

「伯母の跡を継ぐとは考えたこともありませんでした」

 それが突然の決心をしたのは、’04年。和子さんが82歳のときに脳梗塞で倒れたのがきっかけだった。

「伯母が生涯をかけてここまで大切に育ててきた合唱団を、このまま終わらせたくないと思ったんです。伯母には子どもがいなかったので、引き継ぐのは自分しかいない、と。私はいろいろなことを同時にできないので、それまでの仕事をいっさい辞めて合唱団に専念することにしました」

 皆川氏が引き継いだ後、’12年にはクラシックの殿堂として名高いサントリーホールで70周年の記念公演を行い、車イスに乗った和子さんも幸せそうに壇上に上がった。

「かつての教え子たちが集まって、伯母も"あら、〇〇ちゃん!"って昔に戻ったみたいに楽しそうでしたね。吉永小百合さんもステージでご挨拶をしてくださって、伯母もとてもうれしそうでした」

 その2年後の’14年8月16日、和子さんは92歳で、その波乱の生涯を閉じた。

2015minagawaosamu (12)
2013年末、2人で年賀状用の写真撮影をしたが、これが最後に……

「今回、伯母の人生をたどった『太陽がくれた歌声』を出版するにあたり、40代から80代に及ぶ卒団生の方たちにお話を伺って、驚くべき事実がたくさんわかり、改めて偉大さを実感しました」

 和子さんが、ひばり児童合唱団を立ち上げたのは1943年。日本はまさに太平洋戦争のさなかであり、彼女は21歳という若さだった。