テレビをつければ、いまやジャニーズアイドルの姿を見ない日はない。カッコいい男のコを指して「ジャニーズ系」と呼ぶことも定着した。当たり前のように存在する芸能界の一大勢力“ジャニーズ”は、いかにして作り上げられてきたのか。昭和ジャニーズの主役たちが当時を振り返る――
 おりも政夫がジャニー喜多川氏と出会ったきっかけは同じ劇団にいた永田英二だった。

「僕は小学校1年生のときに『劇団若草』に所属していて、子役として芸能活動をしていました。ジャニーズに入ったのは同じ劇団にいた、英ちゃん(永田英二)に誘われてジャニーさんのところへ遊びに行ったのがきっかけです」

 おりもはその日に、ジャニー氏に「ユーもやってみるか?」と言われ、考える間もなく、そこからジャニーズ所属タレントになったという。

「当時は代々木に事務所兼合宿所みたいなところがあって、人数もまだ少なくて、6~7人しかいなかったと思います。もっと少なかったかもしれない。その中にトシ坊(江木俊夫)とコーちゃん(北公次)がいましたね。僕は地元の亀戸から通っていました」

 徐々に合宿所の人数も増えて、若い男の子ばかりの所帯は毎日が修学旅行のようなノリだったという。ファンも今と違って、そう簡単には東京まで出てくることができない時代。そんなファンのために、おりもたちは地方へ出向いた。いわゆるコンサートキャラバンだ。

「夏休みになると、みんなで地方を回るんです。40日間行きっぱなしですよ。キャラバン中は寝ないで麻雀したりして、寝るのは移動中だったり。でも、みんな若いから平気でした。ケンカもしたり、ほんと修学旅行でした」

『フォーリーブス』が誕生したのは、おりもがジャニー氏と出会って数年後のことだ。

「僕が13歳のときでした。『ジャニーズ』の最後の曲『太陽のあいつ』の間奏で踊るためにと、ミュージカルをやるにあたって『ジャニーズ』の弟分にあたる若い子が必要だったんです。昭和42年の夏に『ジャニーズ』の解散コンサートで『いつかどこかで』というミュージカルをやって、そのサブタイトルが『フォーリーブス物語』だった。そこから僕らのグループは『フォーリーブス』と名づけられました」

 昭和43年に日本のソニーとアメリカのCBSが組んでCBSソニーというレコード会社が設立。そのレーベル第1号で『フォーリーブス』は華々しくレコードデビューを飾った。

 そして、その前年にはテレビのレギュラー番組が決まり、彼らの人気に拍車がかかり始めたときだった。

「まだ小学生だった英ちゃんが児童福祉法か労働基準法に引っかかって、夜の番組に出演できなかったんです。それで青山孝史とチェンジしたんです」

 メンバーは変わっても、彼らの人気は衰えることなく、ファンは増えるばかりだった。少年たちをあっという間に、国民的な人気者にまで押し上げたジャニー氏のプロデュース力は驚きに値するが、

「ジャニーさんはホントにエンターテイメントにたけた人でした。どうしたらお客さんが喜ぶか、ビックリするかを知っていて、常に研究しているんです。いろんなアイデアを持っていました。今までの演出家とは大きく違っていました。僕たちにもそれを教えてくれました」

 だが、彼はアイドルを作り出す演出だけにたけていたのではない。少年たちを立派な社会人にするための“演出”も忘れてはいなかった。

「ジャニーさんから教えられたのは仕事のことだけじゃないんです。僕たちが人気者になり、ちょっと天狗になっているときがありました。出待ちのファンに手を振らなかったときに、ジャニーさんにすごく叱られました。“なんでユーたちは手を振ってあげないんだ!”って。“あの人たちがユーたちの財産なんだ。あの人たちを大事にしないとダメなんだよ”ということを早い時期に教えられました」

 本当の演出とは仕事で輝くことと、仕事を離れたときも輝くこと。表も裏も大事にしなさいということを教えられたという。近藤真彦が記録を破るまで、おりもは“ジャニーズ事務所最年長タレント”の称号を持っていた。

「『フォーリーブス』が解散しても僕は41歳までジャニーズ事務所に残っていました。でも、さすがに居づらくなりました。僕のやりたいことと事務所の方針が違ってきたりね。後から若い人たちがどんどん出てくるから、力のかけ方も違ってきました」

 それで事務所を去ることに。

「ジャニーズはもちろん僕の原点でもありますが、宝石箱ですね。それも原石がゴロゴロしている。僕はまだ現役だからその延長線上にいるんだけど、その原石のいくつかが磨かれて本当の宝石になって、もっと磨かれてそこから飛び出して大成していく。『フォーリーブス』はそんな原石だったような気がします」

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