自分はダメな子、悪い子と思い続けて

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どん底だった家族が紆余曲折を乗り越え、理想の家庭へと成長していくさまを赤裸々に描く。もうひとつの"ビリギャル"物語も収録。『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』(ああちゃん、さやか著/KADOKAWA刊)
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「私は本当にダメ人間なんです」と、こころさんは何度も繰り返して言う。

「小さいころから、自分に自信を持てるものが何もなかったんです」

 1964年、橘こころさんは大阪府のサラリーマン家庭の長女として生まれた。

「母はとても愛情にあふれた、何事にも一生懸命な人なんです。その愛情ゆえに、私は厳しく叱られて育てられました。母は自分の経験上、"女の子は家のことがきちんとできないとダメだ"というしつけをしたので、私が勉強しようとすると、用事を言いつけるんです」

 学校から帰ると、飼っていた鳥たちや犬の世話をしたり夕食の買い物に行ったり、やることが山のようにあった。

「でも、全然できなくて、"また怒られる"と思うとドキドキしてきて、案の定、怒られるんです。何度も同じ失敗を繰り返して叱られて……。でも母の言うことは正しいので、"できない自分は悪い子なんだ"と思い込んでいきました」

 自信のなさから臆病で引っ込み思案になり、小学校での集団生活は怖くて不安で仕方なかったという。

「"〇時になったら校庭に集まってください"って言われても、どうやって行けばいいんだろう? と思うと、焦ってワケがわからなくなっちゃって、みんなと一緒の行動がとれないような子だったんです」

 けれど自分を叱る母を決して悪く思うことはなかった。

「本来、母はものすごく優しくて、枯れそうな植物を大木に育てたり、小鳥を2羽飼ったら何十羽と増えたり。あるとき窓を開けていたら、鮮やかな緑と黄色のオウムが家に飛び込んできたこともあったんです。そんなことが日々の中でしょっちゅう。うちの母は不思議な力がある人だな、と思っていました」

 また、この母は、自らの姉や兄弟がお金の無心に来ると、余裕がなくても、あるだけのお金を渡してしまうような、自分の損得を考えない人だった。

 この幼いころの経験が、こころさんの人生の価値観を大きく決定づけた。

「叔父や伯母はそれぞれ学歴も美貌もセンスもあって、会う人がみんな惹かれるほど魅力的な人たちだったんです。でも、自分の欲ばかりを優先して、他人への思いやりもなく、最後は一文無しになってひとりぼっち……という人生を見てきたので、人間は心が伴わなければ不幸になるんだと。私はあのような人生は送りたくないと、ずっと思ってきました」

 同時に「いつか私は絶対幸せになって、損して苦労ばかりしてきた母を幸せにするんだ」と強く思ったという。

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 結婚相手には「貪欲に高いものを望んでました」というこころさんの理想は、学歴でも家柄でもなく、「私が思うのと同じくらいに母親のことを思ってくれる人」だった。

 短大を卒業後、大手企業に就職。その同僚が誘ってくれた食事会で現在の夫と出会い、23歳で結婚した。

「彼は"お母さんが寂しい思いをしないように僕も一緒に住みます"と言ってくれて。私の願いを叶えてくれる優しい人だな、と思いました」

 しかし、ほどなくして小さな亀裂が生まれていく。

「お互いに若くて我が強く、"絶対にいい家庭を築きたい"という理想が高かったために、少しのズレにもものすごく反発してしまったんです」

 こころさんの著書の中には、結婚当初のエピソードが記されている。大阪出身のこころさんが、お好み焼きをおかずにして白米を食べる関西の風習どおり、お好み焼きとご飯の両方を食卓にのせると、怒りに震えた夫が食卓を吹っ飛ばした。悲しみと驚きの中で、夫との間に大きな距離を感じたという。

「自分がよかれと思ってやったことがことごとく彼を怒らせていたので、怖くて何もできなくなって。私はやっぱりダメ人間なんだと思いました」

 物事のとらえ方や感じ方、子育ての仕方、金銭感覚に至るまで夫婦は正反対の価値観を持ち、互いに譲ることがなかった。ぶつかり、いがみ合い、やがて家庭の中で無視し合うようになる。

「結婚生活のほとんどの期間、家の中に夫婦の怒りが充満していました」

 こころさんは離婚届をいつもバッグに忍ばせていた。