苫米地
信者の脱洗脳は公安による依頼が最初。家族からの依頼も多かったと振り返る苫米地さん

 日本中を震撼させたオウム真理教。一連の事件が起きた背景から、その後の影響までを検証する。

 オウム真理教の元幹部をはじめ、多くの信者を“脱洗脳”した認知科学者・苫米地英人さん。

 自身が立ち上げたディベート・リーグを通して、上祐史浩『ひかりの輪』代表と学生時代から面識があるなど、教団の実態をよく知る存在だ。そんな苫米地さんは次のように強調する。

「オウム問題とは何か。それは、日本社会の問題と言い換えることができます。宗教をずっとないがしろにしてきたこと。若者の望みを捨ててきたこと。この2つがセットになると、オウムが生まれます」

 初詣は神社へ、クリスマスにはケーキを食べて、亡くなったら仏教式の墓地へ埋葬。私たちが日常で接する宗教は、教えそのものより、むしろ文化や慣習といった要素が大きい。

「しかし、本来の宗教は底知れない力を持っています。例えば『イスラム国』は、私たちの世界から見ると“自爆テロをやるなんて、とんでもないやつら”だと思う。だが一方、彼らの世界では、むしろ英雄的行為だからこそジハードを行うわけです。生死や既存の価値観を覆させるほどの強い力が、宗教にはあります。その力を長い間、日本社会はあなどってきたのです」

 かつては日本でも宗教が特有の力を持ち、時の権力者を恐れさせた。それがいつからか闇に葬られてきた歴史があると苫米地さん。

「オウムを批判するのに、カルトだとか、殺人を容認する教義だとかを理由にあげる人は多くいますが、問題の本質ではありません」

 確かにオウムは「子どもでもわかるような教義の矛盾があり、徹頭徹尾カルト」としたうえで、こう話す。

「オウムの信者たちは本当に“人類救済”を信じて、地獄の苦しみを味わわせないために、世の中のために多くの人を殺しました。こうした教義を危ないと看做す人は多くいますが、世界じゅうにある宗教のほとんどは、神が認めた殺人『キル』とそうでない殺人『マーダー』とを分けており、『キル』のほうは禁じていません。何もオウムが特殊というわけではない」

 教義で定められているにせよ、すべての宗教が殺人に走るわけではない。では何が一線を越えさせるのか。苫米地さんは、日本社会が抱えるもうひとつの問題、世の中に帰属意識を持てない若者たちという要素が加わったときだと指摘。

「子どもたちのなかにはアニメのヒーローのような、ある種の超人願望を抱く者が一定数は必ずいます。誰よりもガリ勉をして東大へ行ったり、猛稽古して空手大会で優勝したり。そうした信者がオウムには大勢いましたが、これもある種、超人願望の表れと言える。ところが、今の自分よりすぐれた存在になりたいと願う子どもたちの受け皿をこの社会は持っていません」

 経済が右肩上がりの時期には、何かしらのゴールを見据えることができた。しかし、社会が夢を失ってからすでに長い……。

「最近は、将来の夢に正社員をあげるような時代。ますます希望が持てない社会になった。宗教が本来持つ力への理解も、20年前と変わらずに乏しい」

 オウムから分かれた2教団も同様に、その本質は昔と変わっていないとみる。

「『アレフ』は麻原への信仰心を失っていませんし、ひかりの輪の上祐は確信犯。自分が束ねなければ“迷える子羊”が行き場をなくすと言っていますが、これはヤクザの論理ですよ。どちらも解散するべきです。ほかにもミニカルトがたくさんある状況ですから、オウムの〝闇〟は、今後も深まるばかりです」