シンクロナイズドスイミング日本代表としてリオ五輪へと手をのばしながら、ケガで競技生活に終止符を打った芳賀千里さん。「自分にはもう何もない」失意の中から栄冠へと駆け上がっていった奇跡の日々を追う。

 2015年ミス日本グランプリの芳賀千里さんは、5月からは新卒の社会人として一般企業に正式入社し、ミスの仕事と二足の草鞋をはいている。

 今は弾けるような笑顔で語る芳賀さんだが、1年前には、つかみかけた夢が砕け、心が空っぽになっていた。

■こんな痛みは経験したことがない……

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 '14年2月、芳賀さんは、子どものころからずっと描いてきた夢をついに現実のものとしていた。’16年のリオデジャネイロオリンピックを見据えたシンクロ日本代表(マーメイドジャパン)の正式メンバー11人に選ばれたのだ。

 日本代表に数々のメダルをもたらした井村雅代コーチが3年ぶりに日本を率いることが決定し、大きな期待がかかっていたときだ。当然、練習もハードを極めることになる。

 2か月後、これまで経験したことのない痛みが芳賀さんを襲った。

 病名は「胸郭出口症候群」。鎖骨と肋骨の間の血管や神経が通る部分(胸郭出口)に障害が起こり、腕のしびれや痛み、脱力感、頭痛や吐き気などの症状が起こる病気だ。医師からは「悪化させないためには休むしかない。選手を続ければ腕がマヒする可能性もあるし、日常生活でも支障が出る」と告げられた。手術もあるが効果は高いといえず、リスクもある。

「コーチからはしばらく様子をみてもよいと言われました。でも、症状はよくならないし、いつ治るかもわからない。手術も、リスクを考えるととても踏み切ることはできない。チームのためには、自分が辞退して新しい人に入ってもらい、上を目指してもらったほうがよいと思いました」

■シンクロにふたをして過ごした日々

「あのとき、宿舎に迎えに来たお母さんと家に帰っていく彼女の姿が、まだ目に焼きついている」と当時、最も身近にいた金子正子監督が振り返る。

(代表になれないのなら、シンクロはやる必要がない。もうシンクロにしがみつくのはやめよう)と、競技生活にピリオドを打った芳賀さん。

 空虚感からか、元気がなくなり、食事もろくにのどを通らず、家族とも距離をおくようになってしまった。

「引退を決めたときは、自分にはもう何もないんだと思っていました」

 そんな芳賀さんに、なんとか立ち直るきっかけを与えたいと思った母は、こんなことを言った。

「あなたは小さいころから、やると言ったら一生懸命やる子だったよね。自分のやってきたことを見つめなおしてごらん。シンクロで身につけたものが、どこかで生かせるんじゃないかな─」

 そして芳賀さんに、ミス日本に応募してみては? と話してみたのだ。

「ミス日本は、藤原紀香さんが受賞した大会ということは知っていました。でも、自分は芸能人になりたいわけでもないし、受けてもしょうがないなあと、あまり気にもしていませんでした」

 大学にも通えるようになり、周囲の影響で就職活動も始めた芳賀さん。表面上は明るさが戻ったが、それはシンクロにふたをして、無理やりつくった明るさだった。

 もしかしたら、自分を取り戻すきっかけが欲しかったのかもしれない。ふと、母がすすめてくれたミス日本のことを思い出し、携帯で調べてみた。すると─。

「ミス日本は芸能人の登竜門だと勝手にイメージしていたんですが、ミスの最終候補に選ばれると、日本の伝統文化や美容、自己表現など、さまざまなことが学べることを知りました。身体の不安もあるので万が一、ミスに選ばれても(笑い)、期限が1年と決まっているのもいいなと」

 そのことを母に告げたところ、こう言って背中を押してくれたのだ。

「興味がわいてきたということは、やる気が起きたということ。やる気が起きたのならやってみたら?」

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