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大量の砲爆撃を受け『鉄の暴風』と呼ばれた地上戦は3か月続き、県民の4人に1人が亡くなった
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 戦況が激しくなり、村内や近くの村を家族と逃げ回った。その時、左耳の後ろに破片があたり気を失った。

 現在も時々、大発作があるため、家事や外出も制約される。人ごみの中に行くと「戦時中のドサクサの中にいるみたい」「死人がゴロゴロしているようだ」「米兵が追いかけてくる」などのトラウマ反応がひどく、ひとりで受診もできない。

 家庭問題等への直接的・間接的影響は21人いた。戦後になっても、さまざまな問題を引き起こしている。

 クミさん(仮名)は夫が戦死し、5人の子どもと姑をかかえ、行商をしながら生活していた。仕事で忙しかったために、夫が亡くなったことの行政などの手続きを近所の人がしてくれていた。やっと処理が終わり、近所の人に「ありがとう」とお礼を言うと、なかば強引に性的な関係を迫られた。その結果、妊娠。お金がなかったこともあり、堕ろすに堕ろせない。出産したトウジ(仮名)は非嫡出子として育てられた。

 それでも行商を続けていたクミさんだが、母乳を飲ませる時間もなく、トウジは姑が砂糖水を与えて育ててくれた。夫の遺族年金は入ってくるが、「これはうちの夫が亡くなったからもらえるもので、夫の子ではないあなたにあげるわけにはいかない」と、夫の子どもたちとトウジとは分けて育ててきた。

 その後、実夫の子どもが成人したため、クミさんはトウジと一緒に離れに小さな家を建て生活するようになった。頼るもののいないトウジは「お母さんが亡くなったらどうしょう」と不安がる。クミさんは「大丈夫、自分はあなたが元気になるまでは100歳でも120歳まででも絶対死なないからね」と話していた。

 この話を打ち明けることができたのは、當山さんの調査があったため。誰にも言えずに心に秘めていた。

 沖縄戦後の影響について遅れてきたのは理由があるという。前出の蟻塚医師は、

「沖縄の精神科医の中でもなかなか沖縄戦の話ができず、タブーになっていました。ただ地元紙が体験者のことを記事にしたことで、語ってもいいという素地ができた」と分析している。

 沖縄戦の記憶について調査をしてきた大阪大学大学院の北村毅准教授(文化人類学)は、「話したがらないのは、自分や家族の壮絶な体験を目撃していて、(生き残ったことに罪悪感を覚える)『サバイバーズ・ギルト』のような状態だったのではないか」と指摘する。

 ただ、近年になって話し始める人も増え始めた。2007年の高校の歴史教科書の記述で、沖縄の集団自決の部分で「日本軍の関与」部分が削除・修正されたことで、沖縄県民が怒りを表したことは記憶に新しい。

「自分たちが黙っていたために、きちんと伝わっていないと思い始めたのです」(北村さん)

 當山さんは12年に『沖縄戦体験者の精神保健』について調査した。特にトラウマとの関連について把握するためだった。沖縄本島6市町村と2離島村の介護予防事業に参加していた75歳以上の沖縄戦体験者401人で、PTSDを疑われるほどのトラウマを抱えた人が39.3%いた。

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かろうじて生き延びた人々も収容所へ強制的に送られるなど、過酷な生活が続いた

 また、思い出すきっかけでは、マスコミとの関係が8割と最多。當山さんは「理由として、凄惨な沖縄戦体験に加え、基地から派生する事件や事故などがマスコミにより報道されることが大きく影響しているものと考えられる」と話している。

 沖縄戦の影響は、戦争体験者だけにとどまらず、次世代に連鎖する。うつ病患者の静香さん(50代=仮名)の母親は、子どものころ、死体が放置された戦場を逃げ回った。成人してからうつ病となり、自殺未遂を繰り返した。静香さんも自殺未遂とリストカットを繰り返した。加えて貧困でもあった。さらに静香さんの娘は18歳で出産し、未婚の母となったが、ネグレクト(養育放棄)してしまう。親子関係のなかに愛着が生まれず、世代間で連鎖した。

 十分なケアがなければ次世代への影響も見逃せない。それと同時に、「本土の人たちが沖縄戦やその後の戦後処理についてまったく理解していないことの苛立ちが、沖縄にはあります」(北村准教授)

 沖縄にとって“戦争”はまだ終わっていない。


取材・文/渋井哲也 ●ジャーナリスト。自殺、自傷、依存症など、若者の生きづらさをめぐる問題に詳しい