『前略おふくろ様』『北の国から』『風のガーデン』など数々のヒットドラマを世に送り出してきた倉本聰さん。大震災、原発事故、安保法案などで社会が揺らぐ中、7年ぶりの公演となる舞台『屋根』に何を込めたのか――。粉雪の舞う、氷点下の北海道・富良野に訪ねた。(第2回)

宮沢賢治の童話を音読して

 第二の故郷ともいえる富良野にこのまま骨を埋めるつもりの倉本さん。生まれ育ったのは東京の真ん中だ。

 1935年に国鉄(当時)代々木駅前にあった大邸宅で生まれ、4歳で杉並区の善福寺に引っ越した。本名は山谷馨。自然科学系の出版社を営んでいた父は正義感が強く柔道4、5段の猛者。母は愛情深い人で、両親はともに敬虔なクリスチャンだった。

 兄、姉、妹、弟の5人きょうだいの真ん中の倉本さんは、「ぼんやりした子どもだった」という。実は兄と姉は母が違う。病没後に再婚した後添えが倉本さんの母だが、家族の仲がよく、その事実に倉本さんは10歳まで気がつかなかったそうだ。

「僕は今も含めて、ずっと幸せだという気がしますね。幸せというのは、満ち足りているというのが僕の定義なんだけど、戦時中、空襲に追いかけられていても、なんか幸せでした。家族にくるまれていたから、守られているという安心感があったんですね」

 父は水原秋桜子の門下で俳人だった。日本野鳥の会の創設メンバーのひとりで、幼い倉本さんを連れて、よく山歩きに出かけた。“勉強をしろ”とは言われなかったが、5歳のころから宮沢賢治の童話を音読させられた。

「賢治の童話は詩のような美しい韻律があります。音読を続けたことで、文章のリズム感がすごく身につきました。

 親父は戦後、事業に失敗したりして、借金を残して死にました。何も残してくれなかったなあと思っていたんですが、僕が50代になってからですかね。生前贈与されたものは、すごくあったと気づきました。金銭じゃなく、精神的なものをね」

 子ども時代に何よりつらかったのは、山形県に学童疎開したことだ。食べ物もろくになく、絵の具までなめた。家が恋しくて、布団に入ると泣けてきた。縁故疎開が決まり、'44年暮れに単身帰京したときはうれしかった。

 東京は戦争一色。三鷹の中島飛行機を爆撃に向かうB29が家の上をよく飛んで行った。倉本さんは屋根の上に登り、おもちゃの鉄砲で撃っては父に引きずり下ろされて防空壕に入れられたという。

 '45年4月に父方の本家がある岡山県に家族で疎開し、終戦を迎えた。そこで出会ったのが“柿本のひっちゃん”。『北の国から』に登場する草太兄ちゃんのモデルになった18歳の猟師だ。

「山でタヌキやキツネを撃って持ってきてくれたり、川で石の下にいる魚を素足でとる方法を教えてくれたり。特攻崩れも一目置くくらい強くて、カッコよかった。僕はずっと縄文人に興味があって、先住民に会いにカナダに行ったりしましたが、最初に出会った原人的な人がひっちゃんです。富良野に移った当時、ああ、ここにもそういう人が生きていると感じましたよ」