『前略おふくろ様』『北の国から』『風のガーデン』など数々のヒットドラマを世に送り出してきた倉本聰さん。大震災、原発事故、安保法案などで社会が揺らぐ中、7年ぶりの公演となる舞台『屋根』に何を込めたのか――。粉雪の舞う、氷点下の北海道・富良野に訪ねた。(第3回)

「倉本聰に会ってこい」と言われ

 1959年に大学を卒業してラジオ局のニッポン放送に入社した。

「ちょうどフジテレビが開局する年で、テレビって面白そうだなと試験を受けたんですが、フジに出資した系列のニッポン放送に回されちゃったんです。でも、それがよかった。もしテレビ局に入っちゃったら、シナリオなんて書けなかったですよ」

 昼間はアシスタントディレクターとしてラジオ番組を制作。音だけで情景や場面を想像させるため、効果音を探してあちこち駆け回ったり、寺山修司と一緒にドラマを作ったりした。

 夜遅く帰宅すると、午前3時までテレビドラマの脚本を書いた。アルバイト禁止なので、会社には内緒だ。

「ダブルでやっていたときは大変でしたね。本当にノイローゼになるくらい身体も酷使しましたし。でも、書くのが楽しくてたまらなかったんですよ。自分の作品が実際にオンエアされるのはうれしいものです」

 倉本さんが日本テレビに企画を持ち込み、'63年に始まったホームドラマ『現代っ子』は視聴率30パーセントを超える大ヒットになった。

 ある日、部長に呼ばれて、こう命じられた。

「テレビで倉本聰っていう脚本家が目立ってきた。うちも若手を起用したらどうだ。会ってこい」

 倉本さんは外の喫茶店で時間をつぶして帰ると、「たいしたやつじゃありませんでした」と報告した。

 まもなく倉本さんは4年間勤めたニッポン放送を辞め、フリーの脚本家になった。

 日活や東映の映画、テレビドラマ、アニメなど、ジャンルを問わず書いた。

 その一方で、自分の脚本は構成力が弱いと自覚し、研究を重ねた。

「僕のバイブルは『日本シナリオ文学全集』で、擦り切れるくらい読みましたよ。黒沢明、小津安二郎など第一線の先輩たちの映画シナリオを読んで、まず起承転結に分けて、またシナリオに戻してみる。そんな作業をずいぶんやりましたね」