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 101歳の今もなお、写真を愛し、精力的に活動を続けている笹本恒子さん。どのようにして、日本初の女性報道写真家の道を歩み始めたのか?

「わたくしが生まれ育った時代は、女性に選挙権がなく、公的書類に判子も押せなかったんですよ。もちろん女の子はいいお嫁さんを目指すのが当然。わたくしは“絵描きになりたい”とずっと思っていましたが、父は“女の絵描きなんて嫁のもらい手がなくなる”大反対」

 美術学校への進学を断念。高等専門学校の家政科に進むも中退し、昼間は絵の勉強、夜は洋裁学校に通ったという。

 その後、かつてわが家の離れに下宿をしていた東京日日新聞(現・毎日新聞)の社会部長が、スケッチを気に入り、アルバイトでカットを描き始める。

「とても楽しかったんですが、ある日、紙面に掲載されたとてもお上手な方のカットに、自分の限界を否応なく知らされて……。そのお上手な方? 世界的巨匠になられた棟方志功さん。フフフ、驚かれました?」

 ちょうどそのころ、社会部の記者に「世界中に日本の情報を写真で送る会社をつくるから、来ないか」と誘われたという。

「カメラは素人でしたが、絵をやっていたので構図の取り方を褒められました。撮り方の基本は周囲の先輩たちが、親切に教えてくれましたね」

 困ったのは、いざカメラを手に現場に行くと、「アンタが撮るの!?」と言われること。

「特にお役人さんに多かったですね。男性の助手を連れていけば、必ず私が助手に間違えられました。でも一方で、“女性のカメラマンでよかった”と言ってくださる方がいたのは、励みになりました。女性作家さんに多かったですね。男性には見えない部分まで見えるのが、女性の強みだと思います」

 途中、20余年も写真から離れた時期もあったが、71歳で写真展を開いたのをきっかけに、再びカメラを持つように。

「'90年からは、明治の女性の強さと素晴らしさを撮りたくて、撮影依頼のお手紙を直接送り、98人を撮影しました。『きらめいて生きる 明治の女性たち』を出版し、写真展も開きました。型破りで情熱的なみなさんを、亡くなる前に撮ることができたのは本当に幸せでした」

 今、働く女性に言いたいこととは。

「男勝りになる必要はないということかしら。仕事は男性よりもできたとしても、何も男性のまねをしなくてもいい。わたくしも肩ひじを張った時代もありましたが、女性であることを忘れるのは、もったいないですものね」