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岩鼻さんは月命日にはいつも墓前で語りかける

 東日本大震災から5年の節目を迎える被災地では、風化がとめどなく進む一方、いまだ多くの人が避難生活を強いられているのが現状だ。「3・11その後」を懸命に生き抜く人々の姿を追った。

 岩手県盛岡市内でひとり暮らしをする岩鼻金男さん(52)は、同県釜石市鵜住居の実家にいた長女・美沙紀さん(当時16歳)と母・八重子さん(当時71歳)を亡くした。

 部屋には美沙紀さんの写真や似顔絵がたくさんが飾られている。八重子さんの写真も1枚だけある。

「似顔絵は“娘さんの代わりに”と、震災後に知り合った人から父の日にもらったものです」

 3月になると毎年、岩鼻さんは美沙紀さんが中学時代にバドミントンをしている動画を見る。

「3月2日は美沙紀の誕生日。11日が震災の日、25日が私の誕生日ですが、美沙紀を火葬した日でもある。3月は供養の月なんです」

 釜石市では死者、行方不明者あわせて1000人を超える。うち鵜住居地区は約600人が犠牲となった。

 岩鼻さんの自宅は、200人以上が亡くなったという防災センターの近く。目撃証言からは、美沙紀さんが正面玄関前にいたことはわかっているが、2人ともセンターには入っていないとみられている。

 震災後、岩鼻さんは自宅を中心に美沙紀さんや八重子さん、飼い犬のロン、思い出の品を探し続けた。2人の遺体は見つかったが、ロンは見つからなかった。

 その後、岩鼻さんは毎月のように、月命日には、自宅跡と墓に訪れている。

「1年が始まると、いつも11日をチェックします。だから、お彼岸には行けません。毎月行っているから許してもらっている」

 盛岡市から釜石市に向かう途中、遠野市付近からは、美沙紀さんが好きな曲を車内でかける。墓前では、美沙紀さんが好きだった伝統芸能・虎舞の笛を吹く。

「私が演奏しているので虎舞は好きだった。根っから好きだったのではなく、私とコミュニケーションをとる手段だったのでは」

 その後、自宅跡でも、笛を吹きに行くが、現在は近寄れない。復興工事のため立ち入り禁止だからだ。

「去年もそうでしたが、3月11日は行政が開放してくれていた。もう土地自体も自分のじゃないし。今年は近くに止めて、手を合わせに行くのかな。でも、訪れるたびに道が違っているので止める場所が難しい」

 美沙紀さんが生まれた年に起きた阪神・淡路大震災から20年を迎えた昨年は、被災地・神戸に行った。今年は、東遊園地(神戸市中央区)の『1・17希望の灯』が分灯された陸前高田市で笛を吹いた。

 美沙紀さんは将来、どんな進路を考えていたのか。

「地元に就職して、社会人のバドミントンをしたいと言っていたかな。経済的に負担をかけたくなかったんでしょうね」

 毎月のように釜石を訪れている岩鼻さんはこう話す。

「何年と言われても、毎月11日にはお墓に行っているので、その回数が積み重なっているだけ。メディアで“震災から5年”という見出しが目に入るが、何年という意識はありません」

取材・文/渋井哲也