21年ぶりに再会した謝花(じゃはな)悦子さん(79)はぶれていなかった。

戦争を繰り返さないため全身全霊を傾けています。一生をかける私の仕事です」

 21年前の1996年。私は、沖縄県伊江島にある財団法人『わびあいの里』に1週間滞在した。

 沖縄の伝説的な反戦地主、故・阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さん(2002年没。享年101)が、誰もがともに働き、学び合う場として設立した法人だ。謝花さんは阿波根さんの養女であると同時に、阿波根さんの生涯の秘書として最後まで行動をともにした人だ。現在は、わびあいの里代表理事を務める。

相手が鬼であっても自分たちは人間として接しよう

伝説の平和運動家・阿波根昌鴻さん

 伊江島は太平洋戦争で、米軍が沖縄で最初に攻撃した島。

 敗戦後の1954年、米軍は、伊江島の西崎区と阿波根さんの土地がある真謝(まじゃ)区で、基地建設のために農民に立ち退くよう命令。農民は反発したが、米軍は容赦なくブルドーザーで畑をつぶし、農民はテント生活を強いられ餓死も出た。農耕を強行すれば米軍に逮捕され、何度陳情しても琉球政府は無力。農民の憤怒は膨れ上がるばかりだった。

 だが、運動の先頭に立つ阿波根さんは徹底した非暴力で米軍と闘おうと決める。

 '55年7月。土地を奪われた真謝区の住民は、区民が生きるには「乞食になるしかない」と決意、窮状を訴えるために沖縄本島を7か月間かけて20~30人で歩く『乞食行進』を敢行した。プラカードには「乞食するのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのは、尚恥です」と書いた。

 各地で歓待や寄付を受けたこの行動は、今の辺野古や高江での、基地反対を貫く非暴力運動の礎となる。

 また、阿波根さんらは、島民との間で米軍との折衝における「陳情規定」を作る。それを'96年、阿波根さんの口から聞いたときの驚きを私は今も忘れない。

「私たちは、米軍と対応するときは、決して耳から上に手を上げませんでした。手を上げれば示威行動になるからです。そして、相手が鬼であっても自分たちは人間として接しようと決めたのです」

 実際、阿波根さんたちは米軍に会うと丁寧に挨拶し、穏やかに話しかけ、土地の返還を求めた。その結果、島の67%を占めていた基地は徐々に返還され、32%にまで減った。その土地もやがては返還するとの約束にまでこぎつけたのだ。

母国である日本の政府からここまで虐げられるとは

 ところが'72年、沖縄が日本に復帰すると、「思いやり予算」という税金まで支出して、逆に基地の固定化が始まった。

「私は沖縄がいまだに戦後になったとの認識はありません。特に、母国である日本の政府からここまで虐げられるとは思ってもいませんでした」(謝花さん)

 前述した高江だけでなく、辺野古の基地建設問題でも、政府は裁判所の「話し合いで」との和解案を無視して再び沖縄県を提訴。伊江島に目を向けても、状況は悪化している。オスプレイの離発着訓練で騒音問題が深刻化しているのだ。

 一方で謝花さんは、辺野古や高江で闘う住民を「阿波根の非暴力の教えが生きている」と評価。そして自らもそれを伝えるために生き続けると決めている。

 謝花さんは6歳のとき、身体が動かなくなる病気に侵される。治療しようにも島の医師は軍医として出征していた。40度前後の高熱に寝たきりの生活が続いた。

 だが戦後、謝花さんの祖父を親友としていた阿波根さんが、来訪を重ねるうちに謝花さんの存在を知り、手を尽くし、本土からときどきやってくる医師の手術を手配した。腐った骨を取り除く大手術を受けること3回。松葉杖や車イスでの移動が可能になった謝花さんに、医師は言った─「発病時なら飲み薬で治っていたのに」。この言葉で謝花さんは「私も戦争の犠牲者だ」と認識した。父も沖縄戦で戦死している。

「そうして自分の生涯を決めたんです。戦争への大義をどう説明されても私は理解できない。するつもりもない。戦争に反対していこうと」

 そして阿波根さんと行動をともにするようになる。