ネットでの注目といっても、実際には、古巣であるフジテレビの裏側を暴露してくれるんじゃないかとかいった、悪い意味での注目しかなされていなかったところがあったんじゃないかな。

 本人ももちろん問題だけど、テレビ局もこういう人がアナウンサーとしてやっていいのかという疑問をもっと早く持たなければならなかったよね。

堀潤と比べ、彼には何が欠けていたのか

 テレビ局に属した後、フリーランスになり、ネットを駆使して自分の意見を発信し、注目されるようになる。この流れだけでいえば、近いところにいる人物として、堀潤さんの存在を思い浮かべる方も多いはず。だけど、この二人の決定的な違いは、きちんとジャーナリズムに徹しているか否かということ。

 震災報道に対する姿勢が許せなかったとして、堀潤さんはNHKを退社しましたが、その後はNHKに対する愚痴を言うのではなく、ジャーナリズムを追求する姿勢をとりましたよね。そして、それが評価され、人びとの賛同を得ているわけです。

 堀潤さん自身も、今回の騒動を受けてFacebookで「粛々と実際の社会問題解決に向けた知見が集まる地道な報道を心がけていきたいと思います」と述べられていますが、報道においてはセンセーショナルさだけを追うのではなく、その背後にはきちんとした取材がなければならないということ。そのうえで初めて、言いたいことを伝えるという姿勢。それが長谷川さんには欠けてしまっていたわけです。

 長谷川さんも人工透析を巡って、問題意識は持っていたのかもしれない。だけど、今回の件でわかったように、表現の仕方を間違えると、どんなに問題意識を持っていようが何も受け入れてもらえなくなるんです。

 この二人の違いを前に思うことは、ちゃんとした姿勢でモノを言わないと、言いたいことは伝わらないということ。

 問題に対して、どれくらい真面目に向き合っているのかは、意外と人に伝わっているんだなと。アナウンサーとコメンテーターという違いこそあれ、同じモノを伝える側の人間として勉強になりました。

《構成・文/岸沙織》