2017年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』も期待大! しかし、歴史上あまり有名ではない井伊直虎に対して、「一体、何をした人なの?」と思う人は多いはず。

 お家断絶の危機を救うため、「男」として表舞台に帰ってくることになった井伊直虎だったが、その後の世代に闘魂伝承された直虎の意志とは? ここでは直虎にまつわるエピソードを予習的にご紹介。準備万端で見れば、2倍も3倍も楽しめるはず!

※前編は関連記事の中にあります。

許婚の忘れ形見・直政を育て井伊家を大逆転に導く

 もはや今川の下ではやってはいけない! 今川家臣の多くが武田家へなびく中、直虎が下した決断は新興勢力・徳川へ臣従するという大胆なものだった。家康に嘆願し、ついに憎き政次を成敗! 武田信玄が病死し、いよいよ家康の力が増大していくと、これを機と見た直虎南渓和尚は、虎松を直々に家康に仕えさせるため「鷹狩りの最中に引きあわす」ことを画策する。見事、万千代という名を与えられ家康の小姓となった虎松と、井伊谷に領地を持つことを許された直虎

 ここから井伊家は、これまでの受難がウソであるかのように快進撃を見せ始める。ようやく井伊家に光が!

 中継ぎでありながら、その役目を見事に果たした直虎は、万千代が元服し名を「井伊直政」と名乗る数か月前に息を引き取る。暫定であったため、その名を歴代当主に数えられない直虎だが、幕末の大老・井伊直弼があるのも彼女のおかげ!

 許婚・直親の忘れ形見を育て上げ、井伊家の危機を救った女領主・井伊直虎の鉄の意志は直政にも引き継がれ、その後「井伊の赤鬼」「徳川四天王」と謳われるまでに徳川家の中核を担っていくこととなる。関ヶ原の戦いでは東軍の中心として活躍し、石田三成の居城であった佐和山18万石の城主にまで出世。しかし、井伊家の出世物語はまだまだ終わらなかった─。

彦根城を築城したのも井伊家。直孝の時代には30万石の大名に

直虎をめぐる井伊家家系図(略図)

 直政は関ヶ原で負った鉄砲傷がもとで1602年、41歳の若さでこの世を去る。家督を継いだ直継(のちに直勝と改名)は、父の遺志にのっとり彦根城の築城を開始する。そう、ご当地キャラの人気の立役者・ひこにゃんでおなじみの彦根城も井伊家が建てたんです! 

 無事に彦根城は完成したものの、病弱とも愚鈍ともいわれた直継は頼りなく、井伊家の後継者は異母兄弟である次男・直孝と目されていく。ガッシリした体格でかつ勇猛果敢だった直孝は、大坂の陣で真田信繁が築いた出城「真田丸」で一戦を交えるなど、赤鬼の子として本領を発揮。その功績が認められ、ついに3代将軍・徳川家光の後見役に任じられるまでの大出世を果たす。これが大老職の始まりとされるため、直孝あってこその江戸期の井伊家の活躍ともいえるわけ。耐えしのいでここまでつなげた直虎に改めて「あっぱれ」だ!

 さて30万石を超える大名にまで上りつめた直孝に対し、嫡男であり兄である直継はどうしたかというと上野国安中3万石をお情けで分知されるにとどまっている。当然、正式な当主として選ばれたのは直孝直継の母は、家康の養女でもあったため家柄としては申し分ないはず。病弱であったとされる直継だが、ふたを開ければ直孝をしのぐ72歳まで長生きしているため、「なぜ嫡男・直継は冷遇されたのか?」という議題は、井伊家の中でも真相は藪の中だとか。

 最後に、直虎にまつわる豆知識を少しご紹介します。