大宮へ向かうはずが、なぜか福島の平へ

「東京に行こうと瀬戸内海を船で渡って、岡山県玉野市の宇野の港に着いたとたん、みんなダーッと一斉に駆け出す。汽車の席を取ろうとしてね。そうするとヤクザがやって来て席を押さえてしまう。それをみんなに売るんだね」

 当時、東京までは一昼夜の長旅だった。車内では床の上にも人が新聞紙を敷いて座り込み、立錐の余地もない。そんな汽車にかろうじて乗り込んだ丹少年に、前に座っていた女子大生風の女性が声をかけた。

 “坊や、どこへ行くの?”

 東京に行くと答えたが、泊まる場所すら決まっていない。正直にそう答えると、“渡る世間に鬼はない”とはまさにこのこと、女子大生は手帳を取り出して破り取り、“なにかあったら連絡しなさい”と、大宮の自宅住所と電話番号をくれたのだ。

 当時を思い出し、丹さんがしみじみと言う。

「お礼を言って受け取ったけど、今から考えると女性の部屋の電話番号などよく教えてくれたものだなあと。本当にありがたかった」

 無事、東京駅に到着したが恩師がいた前回とは違い、心細いことこのうえなかった。

「駅員さんに“出口はどっちですか?”と聞いたら“4つある”と。故郷の西条駅には出口は1つしかないからすくんじゃってね。今でも覚えているけれど、30分ぐらいだったかな、柱の陰で立ちすくんでた」

 くだんの女子大生に電話しようと思ったが、大宮にあるというアパートには、まだ着いていないかもしれない。

「それで上野の西郷隆盛像を見てから大宮に行き、そこで電話しようと思ったの。それで汽車に乗ったけど、行けども行けども大宮らしい駅に着かない」

 隣のおばあさんに“大宮はまだですかね?”と尋ねると、“この汽車は大宮には行かないよ。福島県の平行きだ”。

 上野から京浜東北線に乗ればいいものを、常磐線に乗ってしまったのだ!

 こんな偶然で15歳の少年は、福島県のいわき湯本温泉がある常磐炭鉱の鹿島坑にたどり着く。想定外の展開だったが、仕事を得ないことには、ホームレスになりかねない。背に腹はかえられないと今にも風でちぎれそうな『坑夫募集』の貼り紙に応募、職を得た。

 炭坑内部に冷えた空気を送り込む縦坑を掘る仕事で、飯場と呼ばれる宿泊施設に泊まり込み、トロッコに砂利を詰め込む仕事をするのだ。

「温泉地だけにお湯が豊かで、ガンガンとあふれ出ていて。でも飯場は長屋で、枕は丸太を1本通したもので、それにタオルや座布団を乗せて三交代制で寝るの。

 でも楽しかったねえ。だって山(故郷)では義父、八百屋では話す人が誰もいないし、ガソリンスタンドでは石けん買ったら給料が吹っ飛んじゃう。

 飯場には入れ墨を入れたヤクザ者もたくさんいたけど、鼻歌を歌いながら仕事していても文句をつける人は1人もいない。精神的に解放された。

僕は今でも思うんだけど、精神的な圧迫が人間には一番悪いと思う。以前僕が勤めたガソリンスタンドだってそうでしょう? 給料安いからごまかすし、働かない。みんな(従業員)計算するのよ。給料が安すぎたら、たとえ力を持っていても、100%の力を出さないよ

 この時代の経験が現在の富士そばの経営方針にも大きな影響を与えているというが、当時はまだ、トロッコで砂利を運ぶ一従業員にすぎない。

 丹少年はここ鹿島の炭坑で働きながら19歳で福島県立湯本高校夜間部に通い、砂利運搬の仕事から資材の在庫を管理する倉庫番に出世する。

 異例の大抜擢だったというが、いいことは長く続かない。

 縦坑も完成し、またまた仕事にあぶれてしまったのだ。

 東京にとって帰って飯田橋の印刷会社に就職するが、南京虫にくわれた痕が悪化して歩行困難になり、郷里・愛媛への帰郷を余儀なくされた。

 郷里では愛媛県立西条高等学校定時制に転入。新聞配達や、エプロンや肌着などの行商をしつつ無事修了するが、当時の愛媛には仕事らしい仕事がない。

 21歳になっていた丹青年は、3度目の東京への挑戦を試みる。

3度目の高校生活となった、愛媛県立・西条高校時代。英語部の友人たちとキャンプに行った。左端が丹さん
3度目の高校生活となった、愛媛県立・西条高校時代。英語部の友人たちとキャンプに行った。左端が丹さん
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