終戦直後に聴いた「ジャズ」

裕福なカメラ商の長男として生まれた。小学校1年生、両国の実家の庭にて
裕福なカメラ商の長男として生まれた。小学校1年生、両国の実家の庭にて
すべての写真を見る

 巨泉さんは、1934(昭和9)年、東京・両国で5人兄弟の長男として生まれた。本名は大橋克巳(カツミ)。巨泉というのは中学生から始めた俳句の俳号で、その後もジャズ評論などでペンネームとして使っているうちにこの名が有名になってしまった。

 生家はカメラ商を営み、当時では珍しい自家用自動車を持ち、毎週末、銀座などへ観劇や外食に行くような裕福な家庭であった。父は勤めながらドイツやアメリカの情報を学び、カメラを製造販売する会社を興した努力家で、読書好きの寡黙な人だったという。一方、母は生粋の江戸っ子。頼まれると冠婚葬祭のカメラマンを買ってでるような活動的な女性で話し好きのタイプ。巨泉さんは自分は母方の直系であると語っていた。

 戦時中、一家は千葉県に疎開し、巨泉さんが小学校6年のとき終戦を迎えた。皇国史観を叩き込まれ、天皇陛下のために命を捧げることを真剣に考えていた軍国少年は、価値観の180度転換に混乱する。亡くなるまで一貫して反戦を唱え続けた巨泉さんは、

「あの戦争がいかに無謀で、僕たちが教わったことが間違いだったかを悟った。黒を白にするような逆転は2度とできない。戦後民主主義者の原点がここにあります」

 そう折に触れて語っている。

 終戦直後、押し入れの中から毛布にくるまれたジャズレコードを見つけた。それは出征した叔父のもので、敵性音楽の非難を逃れ隠されていたのだった。

「それまで軍歌ばかりの中で育ったので、心が浮き立ち、手足が勝手に動いてしまうような音にすっかり惹きつけられてしまいました」

 この感動が巨泉さんをのちに芸能界へと歩ませるきっかけとなる。