「ひとつ、遺骨くれねが」

 北へ──。同県釜石市。震災の死者は888人、震災関連死105人、行方不明者152人。

 日蓮宗・仙寿院の芝崎惠應住職(60)は「お涙ちょうだいや遺族を傷つける取材であれば断る」と言った。

「お寺はいつも遺族とともにある。ネットには現実を知らない人の耐えがたい言葉があふれている。遺族に言わなければいいのに、“こんなことを書かれてどう思いますか”と心ない報道が聞く」

 いきなり、厳しい言葉を突きつけられて背筋が伸びた。

スチール棚に安置した身元不明遺骨に手を合わせる芝崎惠應住職=岩手県釜石市・仙寿院
スチール棚に安置した身元不明遺骨に手を合わせる芝崎惠應住職=岩手県釜石市・仙寿院
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「行政は働く場所さえあればいいと思っている。働くだけでは人間は無理。遊ぶ場所がないと。それが次の課題です」

 被災者が言いたくても言えないこと。言う気力もうせていること。それが芝崎住職の口からポンポンと飛び出た。

 震災当日、仙寿院は建物に576人の避難者を受け入れた。芝崎住職は震災4日後、遺体安置所に入り、どこの寺も来ていない状況を把握した。被災を免れた寺院を訪ね歩き、「一緒に交代交代しながら御回向(供養)しませんか」と呼びかけた。宗派を超えた『釜石仏教会』が立ち上がり、ボランティアで火葬場に出向いて読経する活動が始まった。

 身元不明の遺骨をすべて預かったのは仙寿院だった。

「廃校舎に安置されていた。寒くて寂しくてあんまりだと思った。寺に避難している人たちに“引き取りたいけど、どうでしょう”と聞きました」

 ひとりのおばあさんが言った。

オラたちと一緒だから来てもらったんせ(来てもらってください)」

 異論はなかった。

 しかし、遺骨を安置する場所がない。地元の事務用鋼製家具メーカーがスチール棚を破格値で組み立ててくれた。避難者は遺骨の担当を自発的に決め、毎日手を合わせる生活が始まった。

 震災から半年たった月命日の9月11日、80歳くらいの男性が訪ねてきた。

「和尚さん、身元がわかんない人の遺骨を預かっているのってここか?」

 ボアつきジャンパーに作業ズボン、黒い長靴。東北とはいえさすがに暑い季節。3月のままの格好をした被災者とわかった。男性は遺骨に手を合わせるとこう言った。

「いっぱいあんだから、ひとつ、これがオレのかあちゃんの骨だって、くれねが」

「いやいや、そういうわけにはいかないんだよ」

 奥さんを探していた。夫婦に子どもはなく、血縁がないのでDNA鑑定しようがないという。月命日の11日朝に欠かさず来るようになった。

「毎月来て同じことを聞くの。“ひとつ、遺骨くれねが”って。断るしかないんだけど、気持ちはよくわかるからつらかった」(芝崎住職)