舞台に、テレビ、ラジオ、映画、音楽・・・。多方面で日本の笑いとエンターテイメントを牽引してきた三宅裕司は、60歳のある日、病に倒れる。その中で見えてきた、家族への感謝と自身の天命とは──。

 3月初旬、有楽町ニッポン放送のイマジンスタジオは、明るい熱気に包まれていた。6月公演『熱海五郎一座』の製作発表が行われていたのだ。公演の会場となる新橋演舞場は東京の芝居の本拠地であり、演劇に携わる者にとっては、いわば最高の晴れ舞台となる。

 その舞台で座長を務めるのが、三宅裕司だ。今、ひな段の中央に座り、共演者に囲まれ、緊張の中にも晴れがましい顔を見せている。テレビやラジオでは、まじめな顔で軽口をたたいて笑わせ、人気番組の司会では手際よくスマートに進行していくが、彼の神髄は“粋”な「東京喜劇」にこそある。その東京の喜劇である『熱海五郎一座』は、新橋演舞場シリーズとしては4回目だが、公演としてはすでに14回を数える。

「最初は2004年に伊東四朗一座を立ち上げて、伊東さんが出られないときには熱海五郎一座として続けてきた。ここまで続いたのは、去年、面白かったからとお客さんが毎回来てくれたこと。すると欲が出てくるんですよね。来年は、もっと面白いものをやろうって。だから、この新橋演舞場でシリーズ化するまで続けてこられたんだろうと思います」

『熱海五郎一座』は、毎回趣向を凝らし、1か月で5万人もの観客を動員してきた大人気の演目である。ただし、これが「東京喜劇」であり「軽演劇」と胸を張って言えるまでに、三宅は長い月日を重ねてきたのだ。

 まだ幼いころに大家族に囲まれて、可愛い素振りでドッと受けたうれしさが、喜劇を目指したルーツだったという、あの日から。

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 1951年、三宅裕司は神田神保町に生まれた。母親は9人兄妹の長女で、8人の叔父、叔母と連れ合い、その子どもたちを入れると、親族は30~40人にもなった。「喜劇」を志す原点は、まだ1~2歳のころにあったと振り返る。

「大勢の親戚を前に“裕司、あれ、やってごらん”と言われて、小さい子が何かをやれば、みんながドーッと笑うわけじゃないですか。そういうことが、人を笑わせて受けるという、いちばんの大もとだったかなって思ってます」

 神田神保町生まれといえば、チャキチャキの江戸っ子。叔母はSKD(松竹歌劇団。1928年~1996年まで存在したレビューおよびミュージカル劇団)の団員で、その夫は作曲家。また母もSKDに在籍していたことがあり、その後、日本舞踊を教えていた。生まれたときから芸能、芸事に囲まれていて、小学生となった三宅も、日本舞踊を習わされた。

「浴衣ざらい(発表会)にも出ていて子どもは拍手を多くもらうから、拍手の快感も覚えたんじゃないかな。叔母がSKDにいたので、国際劇場にも行っていたし。テレビで雲の上団子郎一座(1962年公開された映画、および1965年に放送された榎本健一主演の舞台のテレビ版)とか、クレージーキャッツをよく見ていた。笑いと音楽が入った外国のコメディーも好きで、中学時代はジェリー・ルイスを見によく足を運んだ。

 あと、叔父たちが印刷業の仕事をしながらラジオで落語を聴いていたので、落語が好きになった。だから全部、小さいころからの環境と積み重ねのような気がしますね。喜劇役者になりたいな、と思うようになったのは」

 小学生のときから、日本舞踊のほか三味線、長唄、小唄、ピアノを習っていた。

日本舞踊、三味線、ピアノ、長唄、小唄を習っていた小学生時代。エンターテイナーとしての素地はすでに育まれていた
日本舞踊、三味線、ピアノ、長唄、小唄を習っていた小学生時代。エンターテイナーとしての素地はすでに育まれていた

「母親がね、この子には“芸”をいろいろ習わせたほうがいいって判断したんじゃないですかね。それがいまのベースに全部なってます」

 表現者としてのベースを作ってくれたのが母親だとすると、演出家としての素地を作ってくれたのは父だった。

「親父は8ミリが大好きで、家族や町内の人と旅行に行くと、必ず撮影してそれを編集して、音楽もナレーションも入れて、タイトルも入れて作品を作っていたんです。旅行から帰ってきたらみんなで集まって、鑑賞会をやるんです」

 国鉄技術研究所に勤めていた父親は、その仕事が終わってからコソコソ編集をして、町内の人を呼んで8ミリの上映会をしたという。

「みんなの喜ぶ顔を見たいがために、こんなに一生懸命やってるんだなっていうのを、どっかで感じてたかもしれない。だから現在の自分に必要なことを、親父がやっててくれたんだなって感じますね」

 さらに台本を書いて『素晴らしきプレゼント』という、本格的なコメディー映画まで撮っていたというから、才能のある人だったのだろう。

「祖父は、神保町3丁目の町会長だったんですよ。叔父たちも青年部の部長やってて、祖父の家が大きかったんで、ダンスパーティーとかもやってましたね。板の間の広いところに、クリスマスツリーを飾って、ペレス・プラードのマンボをかけてね。みんなが踊ってるのを見てました」

 たくさんの人が集まる笑いの絶えない家だったという。人を喜ばせることが大好きな家族に囲まれ、小学生の三宅裕司はごく自然にエンターテイナーへの道を進んでいく。