転機となった高校時代のホームステイ

引っ込み思案だった少女時代、中学2年生くらい
引っ込み思案だった少女時代、中学2年生くらい
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 幼いころから活発で、聡明な人だったのだろう。そんなイメージを抱いてインタビューすると、里岡さんは意外なことを口にした。

「おとなしくて引っ込み思案な子でした。社交的で目立つタイプだったのは、2歳上の姉のほう。私は、いつも彼女のそばにくっついて遊んでいました。でも、おませ。姉が好きだったベイ・シティ・ローラーズやジュリー(沢田研二)を聴いていたせいか、同世代の子が大騒ぎしているのを見て “子どもっぽいなあ” と思うことがありました」

 自分のどこか大人びた感覚と周囲の感覚のズレは、小さな彼女にとって、ある種の違和感があった。それは、自分をなかなか外に出せないという形で表れたのかもしれない。

 里岡さんは、愛知県岡崎市出身。脱サラ後に建築設計会社を設立した父、専業主婦の母のもとで育った。ときの首相は、田中角栄。日本列島改造論によって刺激された土地ブームも手伝い、父は一財を築いた。

「部屋には、九谷焼や伊万里焼などの焼き物などが飾られ、父はそれらの特徴やルーツなどを詳しく教えてくれました。自分で着物も着付けることができて、お茶も点てていた。本物に触れる大切さを教えてくれました。母は、自分は一切の贅沢をせず、倹約したお金を子どもの教育費にあててくれる優しい人でしたね」

 華やかな姉は、近所の人から「かわいいわね」「お利口さんね」とよく褒められる。そのたびに両親は、すかさず「みっちゃんも、かわいいよ。お利口さんだよ」と同じように褒めてくれた。娘たちを分け隔てなく愛してくれた。それは、里岡さんの自己肯定感を育んでいった。

 もっと、自分自身を表現していきたい。そう思える転機が訪れたのは、高校生になってから。学校が提携しているアメリカのカリフォルニア州にある高校に、夏休みを利用して約1か月、ホームステイに行ったのだ。1ドル230円近くする時代だったが、両親は快く送り出してくれた。

高校時代、ホームステイで目の当たりにした米国の同年代の少女たちの自由さに感動した
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「アメリカでは、どの子も自分の意見を臆することなく発言する。必要以上に他人と比べることもない。ピアスをして、思い思いのファッションをして、自由に自分を表現しているように見えました。日本の同世代の子よりも大人っぽい考え方で、そこは自分に似ているなとうれしくなり、私もこんなふうに自分を出していいんだ! と思えました。そこから、少しずつ何をしたいか、どうしたいのか発言するようになっていきました」