私たちの社会全体にいじめの構造が潜んでいるのです。なぜそうなるのかというと、日本は島国で、日本語のみが共通言語だから。内側に目が向きやすいし、かえってあちこちを細かく差別化する必要性が生じるためではないかと思います。「差別」と「区別」は異なります。「差別」には、おとしめるニュアンスがある。なぜか、それは自分の位置を上にするためです。

「あいつんちは金持ちだ」「きれいなものを着ている」と言えば、そこではそうでない者の差別化が起こる。教室でも「差別化」が起こるのは当然といえます。

「自分にも相手にも弱いところがある」とわかり合うことが大切

 そういうときに、「部分的に服はきれいじゃないけど、心はきれい」というものの見方をすればいいのですが、それを親も教師も教えられないのです。「全部良い」、なんてことは聖者じゃあるまいしありえません。自分にも変なところがある、相手にも変なところがある。自分にも弱いところがある、相手にも弱いところがある。それをわかり合っていくようにすればいいのですが、今の日本のカルチャーはそういうことを重視していませんよね。「弱肉強食」が仕方ないと思われる社会になりきっています。

 だからって、ものすごく誠実に、誰にでも親切に優しく生きていこうとすると、とてもじゃないがこの騙そうとしている人だらけの資本主義社会では生きていけないことでしょう。振り込め詐欺もあります。我々は常に騙されないように生きなければなりません。利益追求組織が考えているのは、会社の内側で働いている人と外側のお客を、いかにめくらますかということ。そして、その手段は「言語」です。書類をしっかり読めない人たちは資格試験に通らず、低位の労働者になるしかなくなってしまう。

 津波と同じで想定外の話ではありますが、将来AIがもしクラッシュしたら、そのとき人間があえて生きていくためにできることは何でしょうか? それは隣の人と仲良くすることに他ならないと思います。昔から「村八分」という言葉はありますが、人間は協力し合わないと生きられない存在です。教育やメディアなど、大人の世界ではそういうビジョンやメッセージがあまりにも希薄すぎると思うのです。

 隣の人の悪口を言うこと――たとえば韓国人が日本人の、日本人が韓国人の悪口を言うなんてことは、外側から大きなビジョンで見たら馬鹿馬鹿しいことですよね。隣の国の悪口を平気で言う国民を、世界の他の地域の人たちはどう見ることか。人を不愉快にさせるとその人に恨みが残るし、不愉快にさせた側には何のメリットもありません。そんなことを続けていると、最後は誰も相手にしてくれなくなります。

 それに本当は、いじめは資本主義社会においても得になりません。圧力で屈せさせることはできるけれど、うまいこと商品を買っていただくということができないからです。

 やはり、「いじめをしても何も得はない」と、親が教えるべきなのだと思います。


<プロフィール>
松永暢史(まつなが・のぶふみ)
1957年東京都中野区生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。教育環境設定コンサルタント。「受験のプロ」として、音読法、作文法、サイコロ学習法などさまざまな学習メソッドを開発。教育や学習の悩みに答える教育相談事務所V-net(ブイネット)を主催。著書に『男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』(扶桑社)など多数。最近刊は、『新男の子を伸ばす母親は、ここが違う!』(扶桑社)、『将来賢くなる子どもは、遊び方が違う』(ベストセラーズ)、『マンガで一発回答 2020年大学入試改革丸わかりBOOK』(ワニ・プラス)など。