美術家の村上慧さんは'14年4月から、発泡スチロールで家をつくり、その家を背負って各地に移動するという活動をしています。『家をせおって歩いた』(夕書房)は、その1年間の記録です。本書を読むと、村上さんが奇人でも変わり者でもなく、切実な理由でこの活動を続けていることがわかります。この人に会ってみたい!が実現しました。

「移住を生活」しようとある日、歩き始めた

 “家と歩く”活動を始める前の村上さんは香川県に住み、アルバイトで生計を立てていました。決められたことをこなすことでお金を得るという閉じられた生活から脱出しようと、“移住を生活する”ことを決意したのです。

「普段は意識していない自分の生活に名前をつけて、実践してみようと思ったんです。動きの中に身を置くことで、生活を俯瞰(ふかん)してみたかった」

 村上さんは大学で建築を学んでいましたが、住宅設計で必要とされる「空間をどうつくるか」よりも、住むことや寝ること自体について興味を持っていたそうです。課題で、四方を壁に囲まれた物置みたいな家を設計したときには、先生から「これに住みたい人はいない」と言われました。

 また、2011年3月の東日本大震災のときに津波で家が流された映像は、村上さんの脳裏に強烈に刻み込まれたそうです。

「3畳のアパートで2か月かけて家をつくりました。発泡スチロールは軽くて、断熱効果があります。それでも15キロぐらいの重さになりました」

 この家には、屋根もドアも窓もポストもあります。床にキャンプ用のマットを敷けば、寝ることもできます。村上さんはこの家を背負って移動し、土地の持ち主と交渉し、そこに家を置かせてもらって泊まります。この1年間で、北は青森県から南は宮崎県までの180か所に家を置いています。

発泡スチロール製の白い家の中に身を置く村上さん。約1年間、この家を背負いながら国内180か所を移動してまわった。(撮影:Ken'ichiKikuchi)
発泡スチロール製の白い家の中に身を置く村上さん。約1年間、この家を背負いながら国内180か所を移動してまわった。(撮影:Ken'ichiKikuchi)

「震災の直後、東京の路上に手づくりの家を置いて生活したことがあります。すると、通報されて警官に取り囲まれました。寝るためには、家という箱だけではなくて敷地が必要なんだと気づきました。

 家を置かせてもらうのに、寺や神社などを訪れて持ち主に交渉しました。すぐに“いいですよ”と言ってくれる人もいれば、責任が取れないからと断られることもあります。でも、そういうふうに人にアプローチすることに意味があると思います。法律を犯すのではなく、現行の制度の枠の中で反復横跳びのように動き回っていたいんです」

 公共の場所だから置けない、と断られることもしばしばだったと、村上さんは言います。

「親切な人が祭りの場に招いてくれたのに、別の人が文句をつけて追い出されたときはショックでしたね。“公共”は上から降ってくるものではなく、自分でつくっていくもののはずなのに、“みんなが困るから”という言い方で、よそ者をはじく。ムラ意識というのが本当にあるんだと」

 その一方で、村上さんのやっていることがおもしろいと、すぐに受け入れてくれる人もいた。

「とくに印象深いのは、“わいちさん”ですね。岩手県大船渡市の起喜来(おきらい)に『潮目』という建物があります。これは、片山和一(わいち)さんがひとりでつくった大津波資料館ですが、みんなが利用できる公共の場になっているんです」